第2話「カフェモカの気持ち」
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今日も平穏に一日が始まった。
冬の空は気持ちのいい清々しさで青く、雲が程よく浮かんでいてウキウキするような天気だった。
といっても僕の仕事に天気はあまり関係ない。
いや、気分は重要だし、何より晴れていれば仕事場を移動できる。
毎日毎日、狭い部屋で書いているのは気分が滅入るというものだ。
こういう気分のいい日は外で書くに限る。
と言うわけで、ノートパソコンとネタ帳、文庫二冊をカバンに入れて行きつけの喫茶店に向かった。
道の途中はまるで物語のようにキラキラしている。
何か起きそうだ。
そんな気分になる。
こういう時はいい文章が書ける。そんな気がする。
もちろん、どんなときだっていい文章が書けないといけないのだろうけれど、やはり気分は大事だ。
今日はいい日になりそうだなと思いながら坂道を下る。
坂の終わりから商店街が始まる。
肉屋、魚屋、八百屋、婦人服店、文具店、床屋に総菜屋、煎餅、駄菓子屋(なんてものが僕の街にはまだある)、写真館、古びたレコード店、本屋(ここは新しい本も古本も取り扱っている)電気屋、ケーキ屋、餅屋、薄汚れた中華料理屋。
そして商店街の中で隠れているかのようにある喫茶店。
その名をなんと「閑古鳥(かんこどり)」。中々いいセンスをしている。
喫茶店なのに引き戸で、それを開けるとコーヒーのいい匂いがする。
今日はゆったりとしたジャズがかかっている。
店内は雑だ。
汚れているというわけじゃない。むしろきれいだけれど、なぜ雑かというと。
なんとうか統一感がないのだ。
洋の東西、古今を問わずに集められた主人のコレクションは傍から見ればただのガラクタの集まりにしか見えない。だから一言でいうと「雑」なのだ。
しかし、それが不思議と居心地のいい空間を作り出している。
電灯はあたたかい暖色で、冬の寒さをぴたりとさえぎっている店内はふんわりとした温度になっている。
僕はカウンターにいるマスターに「おはようございます」と言って今日もいつもの席に座る。
この店は閑古鳥というが大体いつも人がいる。それなりに繁盛はしているのだ。ただ、そのほとんどは常連である。しかもご老人たちが八割だ。
定年退職で仕事の無い彼らは家ではくつろげずここに来るのだろう。ここに来れば同じような仲間が暇を持て余しているからだ。
僕は仕事場としてここを選んできている。
ここの居心地の良さはキーボードを速く打鍵させ、調子のいい文章を書かせるのだ。と自分に言い聞かせている。
雨の日はパソコンを移動させるのが怖いので来ないが今日みたいに天気のいい日はほとんど毎日来ている。
家で一人で文章を書くのは味気ない。
人のいるところ。適度な雑音が必要なのだ。ぼくには。
席についてメニューに目を通す。
コーヒーと軽食が並ぶ。
昼ごはん時だなと思ったので「和風ツナマヨサンド」と「レタスハムサンド」「ホットコーヒー」を頼むことにした。
「おはようございます」と僕はウェイトレスの女性に声をかける。
「おはようございます!」と元気な声が返ってくる。
何か妙だなと思った。
この人はいつもはもう少し静かな人なのだが。
何かいいことがあったみたいに声が明るい。
まぁ、今日は気分のいい天気だ、気分も明るくなるというものだ。
しばらくしてサンドイッチが来た。
ここのサンドイッチはトーストされている。だからアツアツだ。
レタスハムサンドにはチーズが挟まっていてそれが絶妙に溶けていておいしい。
ちょっと遅めの朝食兼昼食を食べ終えコーヒーで一服。
「お、お皿、お、おさげしますね」とウェイトレスさん。今度は何か緊張して感じだ。
何かいつもと違うなぁ。
何かあったのだろうか?
見ると店長がにこにこと笑っている。
まぁ、何かいいことがあって普段通りじゃないのだろう。
仕事的にはダメかもしれないが僕は常連だし、気にはしない。良いことがあったのならそれはいいことだろう。
さて、仕事だ。
ノートパソコンをカバンから出してテーブルに載せる。電源を入れて起動を待つ。
パソコンのこの起動時間と言う奴をいつか人類は克服しないといけないと常々思う。
この起動時間の間に思いついてメモ帳を開くまでに忘れてしまったアイディアたちがどれほどあるのか?それがどれほどの損失なのか?それを考えるとめまいを覚える。
まぁ、僕はいつもメモできるように小さい手帳を常に持ち歩いているけれど。キーボードで一気に吐き出したい時と言うのは手で書くのは遅すぎる。言葉が文字通り空に消える。
そのもどかしさは物語を書いたことのある人間ならわかるだろう。物語に限らず創作に関係する人は思いついたものを書きとめないでおいて後悔したことはあるはずだ。
さて、無事起動。
テキストを開いて仕事を始める。
ゆったりとしたジャズを聴きながら打鍵するのは心地いい。
ここは時間がゆっくり流れている気がする。
だから、西日が赤くなり始めた時にもう一回コーヒーを頼んだ。
文章を推敲しながら砂糖無しのミルクコーヒーをゆっくりと飲む。かむように、香りを楽しむ。
誤字脱字を直しながら新たに文章挿入する。不自然な文章を削除する。
思えば便利な時代になったものだ。
昔は原稿用紙に赤ペンでバツ印をつけていたのに。今はぱぱっと検索削除挿入が可能だ。
そうこうしていると外は暗くなったらしい。
閑古鳥は夜九時までやっている。夜メニューは別にあってちょっと高いけれどおいしい料理が食べられる。
さすがに晩御飯をここで食べるほどお金があるわけではないのでそろそろ帰ることにする。
僕が荷物を片付け始めると。
ウェイトレスさんがそわそわとした感じでやってきた。
「もうお帰りですか?」
「はい。お勘定お願いします」
いつものやり取りだけどなぜか今日は様子が変だった。
そわそわしている。
まるで何かを待っているような。
「今日は何かいいことでもあったんですか?」と僕は聞いてみた。すると彼女はほほを緩めて「はい」と答えて。
「ちょっと待ってもらえませんか?」とあわてた様子でカウンターの奥に戻って行った。
少しすると彼女はコーヒーカップを一つ運んできた。
ことりと、カップが置かれる。
「お仕事お疲れ様です。これ、私からです」コーヒーのいい匂いがする。けれどこれは。
「カフェモカだね?」
「はい」
「メニューにはないけど。お代はいくら?」
「お金はいいんです。これは私からなので」
「いいんですか。ありがたいですけど」口をつけると甘い味が程よく、心臓の当たりがほっこりと温かくなる。
少し飲んで口を話「でもなんで」と僕が不思議がっていると。
「やっぱり気づいてなかったですね。 今日バレンタインですよ」そういう彼女は顔を真っ赤にしていた。
僕も真っ赤になっていたと思う。
●了
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