土曜日のエフェメラ
白Ⅱ
第1話「無貌の作家(むぼうのさっか)」
●
その作家がデビューしたのは30も暮れ、40まであと二年と言う年だった。
38歳の新人作家。
彼は自分が何故賞を取れたのかまるで分りませんでした。
今まで散々叩きつづけたドアがいきなり向こうから開いたのでした。
要は驚いたのです。
最初の2、3年はうまくいきました。
作家を志してから20年。
ずっと温めておいた物語があったからです。
だから彼にとって新作と呼べるものはありませんでした。
全部貯金でした。
貯金ですから、崩し続ければいつかは無くなります。
かくして、デビュー4年目にして彼の貯金は無くなりました。
最初は長い休日のつもりでしたが、でもだんだんと事態の深刻さが明らかになりました。
彼は一行も書けなくなったのです。
彼は、もう自分を出しきってしまっていて、書くべきものがなくなっていたのです。
こうなっては、もうどんな作家でも書くことはできません。
彼は作家を廃業しました。
それから10年の月日が経ちました。
彼はバイトをしながら細々と暮らしていました。
時折、忘れていたころに印税が少しだけ入りました。
その印税で彼は自分の本を買いました。
なぜそうしたのかはわかりません。
しかし、献本で貰った本でなく、本屋さんに並んでいる自分の本を買うのが奇妙な喜びだったのです。
その本を読むとまるで他人が書いたもののようでした。
あれだけ心血を注いだはずなのに今や他人のようです。
その時、彼は「はた」と気づきました。
今の私と昔の私はもしかしたら別人なのかもしれないと。
もしそうならば、今の私はまた別のものが書けるのかもしれない、と。
早速、書いてみることにしました。
真っ白な原稿用紙を仕事帰りに文具店で買って、さして広くない部屋に一人で机に向かいペンを持ちました。
さぁ、最初の一行です。
しかし、一行目が始まりません。
うんともすんともいいません。
やはりダメなのかと思いしばらくあいだ書くのは控えました。
その年の終わりごろ、昔の仲間が同人誌を作るから一つ話を書いてくれと言ってきました。
最初は「作家は廃業したんだ」と断っていました。
しかし、友人は言いました。
「今のお前は見ていられない」
どういうことか問うと。
「何か言いたいことがあるのに吐き出せないでいるときの顔をしている。まるで学生時代に戻ったみたいだ」学生時代それはもう実感がないくらい昔の話に思えました。
思えばあの時は小説を書けていました。
書きたいこと。
言いたいことが身体の奥から溢れてきたものでした。
それがなくなるなんて想像もしていなかった。
あまり幸せではなかったけれど、今にして思えば充実していた日々でした。
友人は言います。
今の彼はその時と同じ顔をしていると。
少し書いてみようかと思い始めましたが、踏ん切りがつきません。
なにせもう10年も書けてなかったのですから。
そんな彼を見て友人は何を勘違いしたのか「昔の名前を使いたくないなら、新しくペンネームを考えてみたらどうだ?心機一転だ」
心機一転。
なんという言葉でしょう。
彼の中で迷いが晴れました。
名前を変える。
これは彼に新しく生まれよということのように思われました。
これだ、と思いました。
それから二人で新しい名前をああでもない、こうでもないと考えました。
考えること一週間。
今の自分を顕すのにぴったりの名前を考え付きました。
さて、次は執筆です。
まず机をきれいにします。
下敷きを引いて、ペンを横に置きます。
机の真ん中に真っ白い原稿用紙をぴっと貼り付けるように置きます。
タイトルは未定なので空白です。
これからどんな物語が展開するのかは作者すら知りません。
次に名前です。
新しいペンネームを書きます。
一段開けて、最初の文字。
するとどうでしょう?
するすると文字が文章を作り出しました。
これだ、と彼は思いました。
今の自分は違う名前なのだ。
だから書けなかったんだ。
だから書けるのだ。と。
それからは彼は新しい名前でとある新人賞に応募しました。
今度は一発合格です。
審査員の一人は彼の同期でした。
「おどろいたよ。テーマも文体もまるで違うからわからなかったよ。
まるで別人だよ」
それはそうだろうと思いました。
彼にとってはそれは比喩ではなく、実感としてそうでした。
もう、前の自分はいませんでした。
そしてしばらく書いて、また書けなくなりました。
また表舞台から消えました。
しかし、今度は焦りません。
またペンネームを変えて新人賞に応募しました。
変な小説家がいる。
業界では噂になりました。
新人賞では新人で出さないでほしいと言われました。
しかし、テーマも文体も別人なので宣伝するときは新人としての方がやりやすいというわけで特別枠を作らざるおえませんでした。
「敗者復活枠」と呼ばれるその枠は実質「彼」のために作られた枠でした。
こうして彼は死ぬまでに20数回の改名を行い作品を出し続けました。
あまりにも名前が多いのでどれが本名だったのかを知る人はいません。
●了
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