第34話 主と剣


 遠鳴りに響く戦闘の音を聞きながら、ラピスはひたすらに駆けていた。目的は一つ、腕に抱いた剣をあの青年に届けるために。


 人間の姿を得てから数年、ラピスは生まれてこの方こんなに必死に走ったことはなかった。


 ぜえぜえと乱れる呼吸、破裂しそうな心臓、手足は鉛のように重いし、胃はかき混ぜられているみたいで気持ち悪い。しかも、これほど必死で走っているというのに、重鈍な体は遅々として進まず、景色は一向に変わらない。進んでいるのか戻っているかすら定かではなく、自分だけ時間がとまっているようにさえ感じだ。焦る気持ちにまるっきり体が追いついていないのだ。あまりのもどかしさに唇を噛もうとするが、疲労によってそれすらうまくはできなかった。今日ほど運動不足を後悔した日はない。


 だがそれでも、ラピスは足を止めなかった。無謀にも飛び出したあの青年に、戦う力を届けなければ。今それができるのは自分しかいない。……だが剣である彼女は、本当は理解していた。これはよく鍛えられた良質な鋼の剣だ。きちんと扱えば長持ちし、末永く持ち主を守ってくれるだろう。


 ……だが、それだけ。これには聖なる祝福も暗黒の呪詛も込められてはいない。多少切れ味が良いだけの普通の鋼剣。ただの魔獣相手ならともかく、とても魔王に太刀打ちできるような業物ではない。――つまり、この必死の奔走など最初から無意味なのだ。


 だったらなぜこんな苦しい思いをして走っているのか――? ラピスは駆けながらずっと自問していた。だが、結局答えは出なかった。あるとしたら、「居ても立っても居られないから」なんて理由にならない理由だけ。そのうち考える余裕すらなくなって、ラピスは無心で駆け続ける。


 そうしていつしか洞窟を抜け、空っぽになった村を越え、灰にまみれた平原を渡り――そしてその先に、彼を見つけた。


 禍々しい褐色の装甲に身を包んだ大サソリと、たった一人で対峙するぼろぼろの青年。両者の闘争は、しかし、誰が見ても『戦い』と呼べるものにすらなってはいなかった。


 続けざまに放たれる強力無比な尾節の連撃。青年はかわし切れずに弾き飛ばされる。辛うじて急所は外れていたのか、青年はどうにか身を起こして再度戦いに赴く。……だが、それだけなのだ。立ち上がるたびに一撃を見舞われ、数秒後には地面を転がる。致命傷を避けるのが精一杯らしく、反撃どころか近づくことさえできていない。青年はただ一方的になぶられているだけ。永遠にサソリのターンが終わらないのである。


 それでも青年は何度でも立ち上がる。一撃一撃着実に命を削られながら、誰もいない孤独な平原で、たった一人死に向かって愚直に向かっていく。


 その姿を見てラピスの胸に浮かんだのは……『理解できない』という感情だった。


「なんで……なんで逃げないですか……?」


 素人の彼女にだってわかる。どう見たって青年に勝ち目なんかない。往生際悪く立ち向かったって無様なだけだ。さっさと背を向けて逃げればいいのに。


 だがなぜか青年は逃げようとする素振りも見せないまま、がむしゃらに魔王へ挑み続けている。彼の身を案じるより前に、ラピスはその愚かさに腹が立って仕方がなかった。


「あ、あなた、本当に馬鹿ですか?! 元々あなたに関係ない戦いじゃないですか! 早く逃げるですよ!」


 と、思わず叫ぶラピス。その声で初めて彼女の存在に気づいたのか、青年――リクは弱々しい声で答えた。


「ああ、お前か……来てくれて、よかった……」


 そうしてリクは、震える手をラピスの方へ伸ばす。

 『力を貸せ』と命じられるのだろう――ラピスはそう思った。絶体絶命の窮地に、世界最強格の魔剣がやって来たのだ。誰だって縋りたくなるはず。


 ……だけど、そうではなかった。


「――逃げろ、ラピス……そいつらを連れて……時間は、俺が稼ぐから……」


 伸ばした手で指し示したのは、倒れ伏しているエミリアとルーミア。


 そこでようやくラピスは理解した。リクが逃げなかったのは囮になるため。姉妹が標的にならないよう、自分が盾役を買って出ていたのだ。


 だが、理解はできても到底納得などできなかった。たった一人で時間を稼いで、一体何になる? まさか、魔王が大暴れしているこんなところへ誰かが助けに来るとでも信じていたのか? いや、たとえ助けが来てくれて姉妹を連れて逃げたとしても、安全な場所に二人を置いてもう一度戻って来るまでどれだけかかると思っているのか。


 どっちにしたって、リクが助かる見込みなどないではないか。


「なんで、なんでこんなこと……本当に馬鹿すぎです……!」


 思わず口をついて出る罵倒。命を賭けて戦っている人間に対してひどすぎることは自分でもわかっている。けれど、なぜか無性に苛々して我慢できないのだ。


「んなこと言ったって、仕方ないだろ……ここで止めなきゃ今度こそ、こいつアゼリアは村も人も食い潰しちまう……」

「だ、だからなんですか?! どうでもいいでしょ、他人なんて!」


 誰かに親切にすることで、多少の自己満足は得られるかも知れない。だけど、それは間違っても自分の命と引き換えにするほどのものじゃない。ましてや相手は出会ってたかだか数日の村人たち。肉親であればいざ知らず、ほとんど関わりもない人間たちのためになぜ命を投げ打つような真似ができるのか。ラピスにはまったく理解できなかった。


「ははは、『他人なんてどうでもいい』か……奇遇だな、俺もそう思う。……ぶっちゃけ、今すぐ全部放り投げて逃げ出したいぐらいだ……」


 と、リクは不思議なほど穏やかに答える。死を間近にして何かを悟った……なんてわけではない。もはや大声を張り上げるだけの力すら残っていないのだ。――しかし、それでもリクはその先を絞り出すのだった。


「……けど、生憎そうもいかねーんだわ。なんぜ俺の能力は不便なもんでさ……道具がなきゃ戦えないのに、俺は道具なんて作れない。魔法がなきゃ戦えないのに、俺は魔法が使えない。一人じゃ何もできねー能力だからさ、一人だけ逃げ延びたって意味がないんだよ……」


 なんてうんざりした口調で、それでいて穏やかに嘆いた青年は、それからふっと笑顔を見せるのだった。


「だから……逃げても戦っても詰むんなら、少しはカッコイイ方を選びたいだろ?」


 リクが言い残したのは、たったそれだけ。あとはもう何も言わないまま、リクは再び短剣を構えて駆けていく。そしてまたあの無益で無意味な繰り返しが始まった。挑んでは弾かれ、弾かれてはまた立ちあがる。そしてまた足を引きずりながら無意味な特攻へと挑んでいく。敗北がわかりきった戦いは、愚かを通り越して滑稽でさえあった。


 一人じゃ生きられないから、一人で生き延びたって意味がない? ――一体何を言っているのか。たとえ他のみんなを救ったとして、リク本人が死んでしまったらそれこそ無意味じゃないか。


 そう、道具使いだというのなら、他人だって道具のように使い捨てればいいだけ。都合が良い時だけ利用として、不要になったらすぐに捨てる。そうやって自分勝手に生きればいいではないか。――だって人間とは、そういうものじゃなかったのか。


「絶対、絶対おかしいです、こんなの……!」

 

 そうだ、こんなのは馬鹿げている。どうしようもなく不合理だ。仮にも魔族の王が、こんな無価値な戦いで命を捨てようというのか。だいたい、すぐ傍には最強の魔剣だっているのに、救いの一つも求めず、挙句の果てに転移者を連れて逃げろなんて。一人じゃ何もできないと言っている張本人が一人で戦うなど、矛盾していることに気づいていないのだろうか。それともまだ「諦める」と言ったあの誓いを守ろうとしているのか? だとしたら、なおのこと滑稽だ。この緊急事態にそんな口約束を律儀に守ろうなんて、頭が悪いにもほどがある。一周回って笑えて来るぐらいだ。


 本当に、馬鹿で、愚かで、どうしようもなくて……だけど、だけど……


 ――そんな男の傷つく姿を見るのが、どうしてこんなに苦しいのか。


 冷たい手で握られているかのように詰まる胸。肺には見えない糸が絡みついて息もできない。それは穴倉に籠っていた頃にいつも感じていたもの。ラピスはそれをずっと無視していた。最近ではもう慣れたはずだった。だが抑え込んでいたはずの名前も知らぬ感情の渦が、今になって押し寄せて来て止まらない。胸の奥からこみ上げる何かが、どうしようもなく抑えられない。そしてそれが限界を越えた刹那――気づけばラピスは駆け出していた。


 抱えていたはずの剣など投げ捨て、


 逃げるために得たはずの足で走り、


 拒絶するために得たはずの声で叫ぶ、


 ――自分を守るために得たはずの、その手を伸ばして。


「『一人きりになってもいいことなんてない』って、教えてくれたのはあなたじゃないですか! だったら素直に――「助けて」って言いやがれです――!!!」


 ラピスの全身から放たれる眩い光。溢れ出す法外な魔力の中、少女のシルエットが形を変える。


 万人を拒絶する棘だらけの柄、醜く捻じれた歪な刃、空間を歪めるほどの禍々しい邪気――思わず目を背けたくなるほどの、醜悪で不格好な呪いの剣。収まるべき鞘すら持たぬそれは、『暴食』の忌み名を冠するおぞましき魔剣にして、ラピスの有するもう一つの姿――『魔剣・ラピス=グラ』。


「なるほど、これがお前か……」


 かつて力を求めてやって来た者たちは、誰もが魔剣の歪さに顔をしかめていた。本能的な嫌悪を引き起こすほどに呪いの密度が異常すぎたのだ。


 だが、そんな魔剣を前にして、リクは不敵に微笑む。なぜなら彼は神に祝福された戦士でもなければ、敬虔な修道士でもなく、善良な一般市民とさえ呼べる者ではない――泣く子も黙る邪悪な魔王様なのだから。


「ははっ、こいつは――魔王にはお似合いだな!」


 リクの右手がラピスを掴む。未だかつて誰一人扱えなかったはずの魔剣は、いともたやすくその掌に収まった。まるで一揃いの剣と鞘の如く自然に、最初からそこにあったみたいに穏やかに。


 瞬間、二人の心が交差する。道具頼りの代理魔王と、人間嫌いの魔剣……互いが互いの心を見て思った。


 なんと空虚で、足りないだらけな奴だろう。脆く、未熟で、穴だらけ。欠点ばかりのどうしようもないポンコツだ。だけど――


 二つ合わせれば、多少はマシになるかも知れない。


「――いけるな、ラピス?」

「――それはこっちのセリフです、リク」


 新たな担い手の存在を察知し、唸りをあげる暴食の呪詛。ラピス自身にさえ制御できないその呪いは、容赦なくリクへと牙を剥く。だがリクはあえて抵抗しなかった。たとえ当人が望んでおらずとも、それは他ならぬラピスの一部。だったらこの呪いは……決して拒絶すべきものではない。


 己を喰らわんとする呪いへ、リクは自ら【万象昇華アイテムマスター】の力を流し込む。それは荒れ狂う呪詛の渦を越え、その奥にうずくまるラピスの元へ。


 ――一人では御しきれぬ手綱でも、二人であれば違うかも知れない。


 万象を喰らう暴食の呪い。

 貪ることしか知らぬ歪な魔力。

 その孤独なる呪縛が、温かなリクの力によって一つに束ねられていく。

 そう、ラピスを苦しめ続けた忌むべき力は、今宵初めて、己が主を認めたのだ。


「これで終わりだ、アゼリア――!!!」


 散逸する暴食の力を、一点に収斂した魔剣の一振り。そのどこまでも真っ直ぐな斬撃はアゼリアの固い甲殻さえ食い破り、内包する数十万の命を一刀のもとに断ち切ったのだった。

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