第5話

 宵闇に緲緲びょうびょうと枝葉の泣く、賑わしい夜であった。

 東の空にかかる月は円く、濃い黄色に染まり、とろりとした明かりを桜木に落としては、なお深い闇をその根本に息づかせている。


 老木に僅か残る花の色は真白。

 萌え染む若葉に混じり、消え入りそうな御霊の如く夜闇に浮かび上がる。


 風は湿り、星影は霞の彼方。

 濡れた土の仄暗い匂いに混じり、甘やかな薫香が漂風に乗る。


 揺れる枝葉の、葉桜の元、向き合うは男女二人。


「また、逢えましたね。桜子さん」

「五年ぶりですね。秋田先生」

「お変わりないようで」

「ええ。為す術もなく」


 互い、夢見るような表情で言葉を交わす男と女。

 濃茶と黒のチェックの背広姿と、清らかなセーラー服。

 

「私、あれから秋田先生のこと、調べたんです」

「私のことを?」

「ええ。【私たち】の術を防ぐでもなく、躱すでもなく、虜になるままに殺意を向けるだなんて、一体どんな絡繰りかと思いましたけど……。笑っちゃいました」

「お恥ずかしい話です」


 くすり、と。

 それだけで幾千の男たちを蕩かしそうな甘い笑みを浮かべて、桜子は言った。

「かわいそうな先生。【私たち】を狩るためだけに生み出されて、人を愛することを許されず……いいえ。ただ一つの愛を求めるためだけに欲望を消されることなく抑え込まれ、それなのに、その思いを果たすことは決してできない哀れな魂……」

「……」

「ああ。かわいそう。なんて人生なのかしら。ねえ、先生? 虚しく思うことはないの? 恨めしく思うことは? あなたを生み出した連中に、復讐したいと思ったことは?」

「ふふ」

「?」


 まるでそれが心地よい音楽であるかのように桜子の声を聴いていた葉太は、ついにぽろりと笑みを溢した。


「なにがおかしいの?」

「いえ。何も」

「では――」

、どうでもいいんですよ、私は」


 その顔は、どこまでも穏やかだった。


「私の生い立ちも、この歪な魂の在り方も。……いいんです」

「それは、諦め? それとも自棄かしら?」

「さあ。わかりません。でもね、桜子さん」

「ええ」

「私は、今、ここにいる」

「……」

「ここにいて、ここにある。なら、それでいいじゃないですか」


 その言葉を受けて、桜子の顔から笑みが消えた。

「馬鹿なんですか」

 言葉自体が冷気を持つかのように、葉太の頬をひりひりとした風が打った。

「実は、そうなんです」

 春の日差しのような柔らかな笑みでそれを受け流す葉太の目が、半眼に伏せられた。

 右足を後ろに、だらりと下げられた左手には、いつの間にか銀色の光を放つナイフが握りこまれている。


「そんなことより。ねえ、桜子さん」

「なんでしょう」

「私ね、実は、五年前のあの日から、一度も情を果たしていません」


 桜子の目がぱちくりと瞬き、次の瞬間に、どろりと淫蕩な笑みを浮かべた。

「あら。おかわいそうに」

「あの後、三人の獲物を狩りましたけど、どれもあなたほどに惹かれませんでした。術には、普通にかかりませんでした。これでは私の立つ瀬がない」

「うふふ。実は、私も――」


 桜子の右手が、その豊かな胸元に這いまわり、セーラー服の上から左の乳房を揉みしだいた。

「先生に斬られた場所が、いつまでも疼いてたまらないの。……ねえ、先生。私たち、相性がいいのかしら」

「いえ。あなたの魔力が強すぎるだけでしょう」

「……ロマンのない人」

「……ああ。もう、いいでしょう、桜子さん。もう五年、待ち焦がれたんです……。さあ、早く――」

「はあ……。まあ、焦がれたのは私も同じですから、いいでしょう。でも――」


 ぞわり、と。

 桜子の髪が揺らめき立ち、黒真珠のような瞳が血の色に濁った。

 その足元に伸びる影が、うぞうぞと蠢きだす。


。聞かせてくださいよ。……ねえ、先生。私のこと、好き?」

「はい。愛してますよ、桜子さん。…………だから、殺す」

「あはっ」


 ごう。


 漆黒の颶風が奔り、銀色の閃きがそれを断った。

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