第2話

 春川桜子は女王であった。

 新学期が始まり二週間も経てば、おおよそクラス内での生徒たちのグループ分けも出来上がってくる。

 近年スクールカーストなどという言葉が取りざたされ問題視されているが、なるほど言いえて妙だと葉太は感心していた。

 それは決してなくならない慣習で、生徒たち一人ひとりが、この先社会に出てからもついて回る『自分』という人間の立ち位置を分からされるラベリングでもある。


 春川桜子は、女王であった。

 このクラス、いやクラスや学年をも越えて、みなが彼女の元に傅いていた。

 彼女を目の前にすると、あるものは頬を上気させ、あるものは色を失い、あるものは饒舌になり、あるものは無口になり、彼女の放つ言葉と仕草に右往左往した。

 まさに、学校スクール身分階級カーストの頂点に、彼女は君臨していたのだ。


 彼女の姿を指して、女優の誰それに似てる、いやアイドルのあの子に似ているなどという言葉を聞くと、葉太は白楽天の詩の一行を思い出した。


 ――雲想衣裳花想容。


 傾城の美姫、楊貴妃の姿を讃して詠まれた詩の最初の一行である。

 人の美しさを自然に譬えるのではなく、美しい自然の中に彼女の姿を見ている。

 全ての美が、彼女に隷属している。

 それはまさに、春川桜子にこそ捧げられるべき言葉であった。

 しかし――。


『ねえ、葉太。あなたが好きよ』


 彼女の姿を見て葉太の脳裏に過るのは、今はもう会えない一人の少女であった。

 

(志野……)


 かつて共に道を歩んだ少女。

 かつて肌を重ね、魂を交わらせた少女。

 桜子の姿は、その少女の面影を葉太に思い起こさせずにはいられなかった。


 そして、今。


「秋田先生。私、進路のことで相談があるんです」


 葉太は夕暮れの公園で、春川桜子と向かい合っていた。


 そこは、葉太の勤める学園から徒歩5分の場所にある城址公園で、ただ一本だけ植えられた桜の木が唯一見どころと言えば見どころの、小さな公園だった。

 その桜木ですらが、今は殆ど真白い花を散らし、すっかり葉桜となっていた。周囲に人気はなく、ただ藍と茜の混じった空から、湿った空気が吹き抜けていくだけである。


 殆どが若葉色となった桜木の根元で立ちすくむ桜子は、薄暮の中でも失われぬ美貌を真っ直ぐに葉太に向けて、言葉を紡いだ。

「秋田先生が、いつも仕事帰りにこの公園に寄ってるって聞いて。済みません、待ち伏せしちゃいました」

 清らかなセーラー服の胸元は年齢不相応に大きく前に張り出し、膝上丈のプリーツスカートは腰元から悩まし気なラインを描く。すらりと長く伸びた脚が、紺色のハイソックスとの合間に艶やかな柔肌を見せていた。

 

 その黒真珠のような二つの瞳に真っ直ぐ見つめられ、葉太は己の身が竦むのを感じた。それなのに、いつしか自分が手の届く距離まで桜子に歩み寄っていたことに気づき、愕然とした。

 風に棚引く黒髪が、爽やかな、それでいて微かな苦みを予感させるジンにも似た甘い香りを鼻腔に運んでくる。

「これは……」

「気づきました、先生? ペンハリガン、っていうんですって」

 葉太には知る由もない香水の名前を、桜子は悪戯っぽい笑みで口にした。

 吸えば吸うだけ酔いそうな薫香が、葉太の頭を犯していく。

「どうですか? この香り。私は気に入ってるんですけど」

「ええ。よく、似合ってますよ」

「うふふ」


 年経た大木に生る甘やかな果実。ほんの微かなスパイスを潜ませた滑らかな匂い。

 それはどう考えても、女子高生が纏うのに相応しいものではなかった。

 それなのに、その全てを己の元に従えて、桜子は艶然と微笑む。

 そして――。


「これ、教頭先生に買ってもらったんです」

「え?」

「だって、1瓶で2万円もするんですよ。ちょっと手が出せなくて……」

「あ」


 ほんの一呼吸の間に、葉太と桜子との間にあった距離はなくなっていた。

 葉太の鳩尾に、柔らかな膨らみが押し付けられ、桜子の左手が葉太の背広の端を掴んだ。

 上から見下ろす形になった桜子の頭から、質量を伴ったかのような薫りが立ち上り、脳を焼く。

 葉太が桜子の言葉の意味を咀嚼する前に、桜子の右手が蛇のように葉太の胸元を這い回り、一番過敏な個所を探し当てると、小指を使って甘く撫で始めた。


「ねえ、秋田先生。これを買って貰ったお礼に、私、教頭先生に何してあげたと思います?」

「あ、ぐ」


 背中を跳ねさせた葉太に、桜子の左手が回され、より強く体が押し付けられる。

 葉太は殆ど酸欠状態になりながら、喘ぐように舌を回した。

「はる、かわ、さ」

「桜子。って呼んでください」

「う……」


 この女は、魔性だ。


 ああ。

 そうだ。

 似ている。

 潤んだ瞳が。

 形のよい眉が。

 たおやかな首が。

 柔らかそうな頬が。

 しっとりと黒い髪が。

 そこに覗く小さな耳が。

 僅かに濡れた桜色の唇が。

 心地よい言葉を奏でる声が。

 彼女の全てが志野に似ている。


 

「ね、先生。私、誰かに似てますか?」



 とろりとした声が耳のすぐそばで聞こえる。

 反射的に震えることもできないほどに密着した体のあちらこちらに柔らかな肉が押し付けられている。

 

 ――雲想衣裳花想容。


 花も、音楽も、香りも、も、これまでの、そしてこれから先の生で葉太が得るどんな美しい体験も、すべては桜子の記憶へと還元されてしまうだろう。

 痛いほどに鼓動は高鳴り、体の血液が下腹部へと流れていくのを感じる。

 いつしか葉太の左手は桜子の背中に回され、その長く伸びた髪の上から彼女の肩を掴んでいた。


「さく、らこ、さん。……ぼくは」


 桜子の笑みが深くなった。

 艶めかしい太腿がスカートをからげ、葉太の両脚の間に差し込まれる。

 葉太の右手が自らのスラックスのポケットに伸ばされ、そこから新聞紙にくるまれた20センチほどの何かを取り出した。

 震える手でその端を握って振ると、新聞紙がめくれて剥がれ、風に乗って飛ばされる。

 


「僕は、君を殺す」


 葉太は、

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