葉桜の君に

lager

第1話

「秋田先生。今日はサンドイッチなんですね」


 隣のデスクからかけられたその声に、秋田葉太は開きかけていた口を閉じ、にっこりと笑って答えた。

「ええ。金曜日ですから」

「ああ。そうでしたね」

 苦笑したようなその声に、葉太はもう一度大きく口を開けると、生ハムのたっぷりと挟まったベーグルサンドにかぶりついた。


「ええっと、昨日――木曜が唐揚げ弁当でしたよね。水曜がおうどんで、火曜が……」

「幕ノ内です。月曜はパスタ」

「そのルーティンはいつから?」

「さあ。覚えてません」

「飽きません? 毎週毎週」

「いえ。あまりモノに執着しない性質タチなので」

「はあ……」


 今年度から葉太の隣の席をあてがわれた同僚の女性――彼らは私立高校の教師だ――は、葉太からすれば小さな小さな弁当箱につまった可愛らしい色どりのおかずをちまちまと口に運ぶ合間に、ぽつぽつと会話を続けた。


「そういえば、秋田先生のクラスは、進路調査票集まりました?」

 花の香りのするお茶を啜りながらのその問いかけに、今度は葉太が苦笑する。

 口の端についたコーヒーの雫をちろりと舐め、まさに目の前に積まれた書類の束を手に取った。

「リーチがかかったんですが、最後の一枚、なかなか振り込んでくれません」

「私はまだサンシャンテンです」

「流局して仕切り直しとしたいところですね」

「うふふ」

 二人は共に三十を目前に控えた歳で、それぞれが今年から二年生のクラスの担任を任されている。


「ちなみに最後の一枚を抱えてるのは誰です?」

「春川桜子さんです」

「ああ……」


 葉太の口からさらりと語られた答えに、同僚の顔色が曇った。

 それは、この学園内においては知らぬ者のない名前であった。女優顔負けの美貌とモデルのような体つき。それにも関わらず性格は温和で親しみやすく、男女を問わず彼女のファンは多い。学業の成績はトップクラスで、なぜこのような中堅未満の私学に通っているのかが不思議がられるほど。


「彼女、すごい人気ですよねぇ。正直私、隣に立ちたくないですよ」

「あはは」

「笑い事じゃないですって。島田先生なんか『彼女、栗山千明に似てるよね』とか言って鼻の下伸ばしちゃって」

「許斐先生は小倉優子に似てるって言ってましたよ」

「栗山千明と小倉優子じゃ、全然違うじゃないですか」

「ちなみに丸山先生は長澤まさみと言ってました」

「なぜバラバラ……。ていうか、みんな自分の好きなタイプを勝手に当てはめてるだけですよね。秋田先生はどう思います?」

「さあ。よくわかりません」

「好きな芸能人とか」

「あまりテレビを見ないので……」


 そんな会話を続けているうちに、ふと同僚の顔色が翳った。


「その、秋田先生。言いにくいんですけど……」

「なんでしょう」

「彼女の、その……噂というか」

「噂?」

「はい。ええっと、学校の一部ではかなり広まってまして。彼女が、学校内外で、その……」

「金銭を対価に、いかがわしい行為に及んでいると?」

「ご存じだったんですか?」


 噂だけならば、当然葉太の耳にも入ってきていた。

 桜子がだれそれと人気のない教室から出てきただの、男子トイレに入っていくのを見ただの、あきらかに父親ではない男と二人でカラオケボックスに入っていっただのと……。

 目立つ容姿の生徒に悪い噂が立つ。それだけならば、ありうべからざる話とまでは言えなかった。しかし、そんな噂が人々の口の端に上っていてさえいてなお、彼女の立ち居振る舞いに一点の曇りもないこと。そして、彼女が誰かにそれを追求されたり、糾弾されたりする素振りが表にも裏にも一切ないことは、どこか不気味でもあった。


 顔を俯かせ、それでもちらりと葉太の顔色を伺いながら、同僚の女性は言葉を続けた。

「その、実は私も見ちゃったんです。ウチのクラスの天宮くんが、彼女と一緒に屋上から――」

 その時。

「何のお話ですかな?」

 突如背後からかけられた低い声に、二人の肩がびくりと震えた。


 振り返れば、がっしりとした体つきの壮年の男が、脂の浮いた顔に貼り付けたような笑みを浮かべて二人を見下ろしていた。

「教頭先生」

「いえ。大したことでは……」

「生徒のことを案じるのは当然のことですが――」

 顔を蒼褪めさせた女性教諭の肩に、節くれだった手を置いた教頭は、その肩を撫でさするようにしながらねっとりとした声で言った。

「根も葉のない噂話に踊らされて、肝心の生徒の心を傷つけないようにしてくださいね」

「はい……。申し訳ありませんでした」

「宜しい。さあ、もうすぐ昼休みも終わりますよ。午後の準備をしましょうか」


 そう言って立ち去った広い背中を見送りながら、葉太は彼が先日にふと漏らしていた言葉を思い出していた。


(あの人は、確か春川のことを×××に似てると言っていた)


 それは、近年人気を博しているらしいAV女優の名前であった。

 教頭に撫でられた肩を必死に摩る同僚を慰め、葉太は書類の束をデスクにしまうと、午後一の授業の準備に取り掛かった。


 化学を受け持つ葉太の授業は、今年度の自分のクラスのもので、当然その中の一人である春川桜子の姿を脳裏に思い描き、葉太は胸が焦がされるような情動を掻き抱いた。


(違う。みんな、違う。彼女は、志野に似ているんだ)


 もう、この世では会うことの叶わない少女の名前を、葉太は繰り返し繰り返し、心の内に呟いた。

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