第12話「旅立ち・後編」


「アーサー」


春のそよ風を思わせる乙女の涼やかな声が響く。

今まで前にいたはずの乙女が、いつの間にやらいなくなっている事態に彼が気づいたのはその時だった。

疲れからまるで働かない脳を回し、彼は乙女の声のする方向を探る。


「おっ……ぜぇ、はぁ…………お嬢さん……?

どこに…………」


「アーサー、こっちよこっち」


声のする方へ、慌てて振り返る。

そこにいたのはヤギだった。

薄闇の最中でもわかるほどの威風堂々とした体躯に、巨大な二本の角を持つヤギだった。


「アーサー!

 わたしよわたし!」


再度、乙女の可憐な声がアーサーの耳を打つ。

それは驚くべきことに、そして到底信じがたいことに、眼前の巨大なヤギの口元から放れていた。

一寸、アーサーは思考を放棄した。

できるならば、今この場で卒倒したいぐらいの気分であった。

その間にも乙女の声で喋る巨大ヤギの言葉は続く。


「あのね、今アーサーとっても疲れているでしょう?

 だからね、わたしとってもいいこと思いついたの!」


ヤギは興奮した様子で後ろ足を高らかに振り上げながら、

大きい角を物ともせずに、その場で数回器用に垂直跳びをする。

依然として目の前のヤギから放たれる声は、

たった1日であっという間にアーサーの耳に馴染んだ乙女の声他ならなかった。


「…………なんですか?」


どこか遠くを見つめるような眼差しで、アーサーはヤギの発言を促す。

諦観の念が、その声には籠っていた。

アーサーは認めた。

目の前のヤギは乙女が変身したのだという、頭が痛くなるような現実を受け入れた。



冷静さを取り戻したアーサーは荒ぶるヤギ、もとい乙女をなだめその主張を聞き出す。

つまるところ眼前のヤギの姿をした乙女はこう言いたいらしかった。「自身の背に乗れ」と。


「ここって獣道なんでしょう?

 じゃぁ人の脚で歩くより、動物の姿になって歩いた方が速いわよね?」


ふんす、ふんすとヤギは荒い鼻息を漏らす。

彼女の意図を汲み取ったアーサーは、苦渋の色を浮かべた。

彼の胸中に、道徳的な疑問と葛藤が渦巻く。


どうなのか。

仕える側の人間が、仕えている存在の背中に乗るのは──もとい。

今は獣の姿へと変身してはいるが、

好いた女性の身体の上に男が跨るのは果たして、人としてどうなのか。



「……しかしですね、お嬢さん」


「しかしもなにもないわ。

 アーサーは疲れているし、今日中にハイロ村に行きたいんでしょう?

 なら取るべき方法はひとつではなくて?」



ヤギの姿へと変化した乙女は、その長い首と鼻先を使って彼の顔や胸元をスリスリと撫で回す。

そんな心温まる光景とは裏腹に、先の言葉はいささかの怒気を孕んでいるように聞こえた。

「これはもう、本気で心配されているな」とアーサーは天を仰ぐ。

とうとう彼も折れざるを得なかった。



「…………………………ヨロシクオネガイシマス」



森全体に響くような声で、乙女は高らかに鳴いてみせる。

いいこね、とでも言いたげな様子だった。


意気揚々とアーサーの身体を無造作に押しのけ、数歩前へと躍り出る。

小さな尻尾を揺らしつつ、無言で彼を見つめる獣の眼は、期待の色で満ちていた。

アーサーはやれやれと肩を竦め、両腕を麻色の艶やかな毛並みに覆われた長い首へと伸ばす。

馬やロバに乗る時のような要領で、彼は軽やかにヤギに変化した乙女へと跨った。



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