第11話「旅立ち・後編」
「乙女よ」
せせらぎ流れる浅瀬へと戻る道中。
軽い足取りで前を行く乙女の背へ向けて、不意にアーサーは言った。
「なぁに?」と薄く微笑みを浮かべた白い面が振り返る。
それは媚びたところなどひとつもない、ごく自然でありながら気品に満ちた所作。
リネンのキャップで髪を束ね、深紅の外套を身に纏っている姿は、
多少の時代錯誤感はあっても、それでもごく普通の女性となんら変わらない。
ただその身に宿したあり得ざる力と死なず老いることもない体質と、
その全身に宿す色さえなければ、の話だが。
乙女は遠き昔自ら大災害への生贄となった際に、
その身を自ら神に捧げることによって世界を救った。
アーサー達が今平和に暮らす世界は、
乙女の犠牲があったからこそ成り立っている。
だが、生贄になったはずの乙女は、名と色を剥奪されてこの世に甦った。
だからこそ彼女には名が無く、そして色がない。
彼女には、呼ぶべき名前がない。
この森の中でも、そして世間においても。
これから旅に出るというのに。
いやだからこそ、それはとても重要なことだとアーサーは考えた。
だからそう言った意味を込めて、アーサーはふと脳裏を過った疑問を、
乙女へ直接投げかけた。
「これからあなたのことは、どうお呼びすれば良いですか?」と。
「わたしの、呼び方?」
「ええ。
これまでのように単に『乙女』では不自然かと思いまして」
ぱちくり、とその真珠の眼を瞬かせ乙女は不思議そうな顔をする。
そんな乙女に言い聞かせるように、彼は真摯に呼びかけた。
そうねぇと小さな頭を傾げ、寸刻考え込んでいた。
「……『お嬢さん』」
無機質な大理石の唇から、一瞬そんな言葉が漏れた。
「そう、そうだわ」と乙女は誰ともなく口にする。
綻び始めた蕾が花開いていくように、
徐々にその彫刻めいた面に微笑みが広がっていく。
「これからわたしのことは
『お嬢さん』って呼んで頂戴?」
お嬢さん?とアーサーはきょとんとした表情を浮かべ、
今しがた乙女が口にした言葉を繰り返す。
ええ、ええ!と乙女は心底嬉しそうに首肯した。
「遠い昔、あなたたちのご先祖さま。初代クロックマンがそうやって呼んでくれたのよ」と。
「……なるほど」
アーサーは目を細め、舌の上で飴を転がすように何度も何度も、
乙女が挙げた呼び名を繰り返す。
その響きはとても彼女に似合っていた。
悔しいが、己では考えもつかない素敵な呼び名だと胸の内で初代クロックマンを深く褒めたたえる。
「ではこれからよろしくお願い致します。
──お嬢さん」
「ええ、よろしくね」と答えた乙女の笑顔は、アーサーの瞳にいつもより数段輝いていた。
森の中を通り抜け、ハイロの村へたどり着くまでの道は、
やはりというかなんというか、来た時と変わらず実に困難な道のりだった。
否、とアーサーは首を振る。
来た時と同じようでは全くない。それ以上である、と。
今のアーサーにとっては行よりも遥かに、大変な苦痛を伴う地獄への案内道のように思えてならなかった。
まず第一に、そこは人が歩くことを想定していない道だった。
そもそもこの森は人が恐れて近づかない場所であったため、人の訪れというものが滅多になく。
この悪路を優に超えて、地獄そのものと呼んでも相応しい場所を、
かつてアーサーの母・ヨランダは二か月おきに出入りしていたのかと想像し、
彼は母の剛胆さと勇敢さ、そしてその驚異の体力に舌を巻いた。
「ひとえにあなたへの愛情故ではなくて?」
隣で乙女が困ったように笑う。
なるほどそうかもしれない、とアーサーは頷いた。
そして第二に、今現在アーサーは全身を苛む激痛、端的に言えば筋肉痛との過酷な戦いの最中であった。
昨晩は、よもやこんなことになろうとは想像すらしていなかった。
悪路と筋肉痛の最悪なコンビネーションは、
体力溢れる若人であるはずのアーサーの身体を猛烈な勢いで蝕んでいく。
「……ねぇ、本当に大丈夫?」
「だいっ……ぜぇ……じょ……はぁ……で……」
乙女とのごく何気ない会話ですら、合間合間に荒い息を挟むほどの体たらく。
乙女はしきりに「ちょっとでいいから休みましょう?」と何度も提案をしたが、
アーサーは頑としてその提案を拒んだ。
身体は疲労困憊を悠に通り越して満身創痍の状態にあり、その足取りが昨日と比べても着実に遅くなっているのが、彼は自身でも手に取るようにわかっていた。
一度休んでしまえばその快楽を覚えて、何度も何度も休憩を欲してしまうに違いない、と確信していた。
現に今でも先ほどの浅瀬での休憩時間が恋しく思える程度には、休息へのただならぬ欲求が頭をもたげている。
しかし、彼は強靭な意思の力でそれを捻じ曲げていた。
ここで何度も休憩を挟んでしまえば、日が暮れる前に村へとたどり着けなくなる。
アーサーはそれを危惧していた。
ただでさえ薄闇が支配する鬱々たる森の中、額やこめかみから流れる汗で視界は歪み、
まともに周囲も見れたものではない。
極限の疲労に侵された脚は、小石や木の根が辺りに散らばる湿った土の上で、更に消耗していくばかりだ。
だが彼は決して歩みを止めるわけにはいかなかった。彼の男としてのプライドが、断じてそれを許さなかった。
──だからそれに気づけなかったのは、言うなれば必然であったかも知れなかった。
※「その響きはとても彼女に似合っていた」という表現は、
最近ハマってるソシャゲの原作の冒頭で、とあるキャラが言っていた台詞を元に
アレンジを加えたものです。
その言葉の響きがとても美しかったので、リスペクトの意を込めて使用させて頂きました。
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