第13話「旅立ち・後編」


ゆさゆさと奇妙なバランスで揺れる身体を、眼前にそびえる巨大な角で支える。

人の脚で慣れない獣道を進むよりかは、確かに数段も楽であった。

しかし馬とも、またロバとも違うその乗り心地は、

端的に言ってしまえばあまり乗り心地の良いものではなかった。少なくとも、彼にとっては。


慣れてないからだ、と己に言い聞かせアーサーは胃から零れだしそうなものを必死に飲み込む。

ヤギに変化した乙女は獣の脚を巧みに使い、軽やかに獣道を走る。

その姿はまるで慣れているかのようだった。

「以前誰かを乗せて走った経験でもあるのだろうか」という疑問と懸念が脳裏をよぎる。


「いや今は考えるのよそう。

 そんな場合じゃねぇやこれ」


現実逃避をしている暇はない、とアーサーは頭を振る。

しっかりと両手で角を掴んでおかなければ、今にも振り落とされるような気がした。

そうしている間にも、どんどんと森の入り口が眼前に迫ってくる。

反射的に「このまま飛び出ては不味い」と悟ったアーサーは、大きな声を張り上げた。


「お嬢さん!!!止まってください!!!」


「え?どうして?」


乙女は麻色の耳を戸惑い気味に微かに動かす。

それでもアーサーの制止を聞き届けた乙女は、疾駆していた脚を緩めた。


ズザザザと土連れの音が響く。

どうやら村に飛び出す手前で、無事に停止できたようだった。

もうもうと沸き起こる土埃の中、アーサーは這う這うの体で乙女の背から降りる。


「アーサー、大丈夫?」


「はい、なんとか」


気丈に笑顔を張り付けつつ、アーサーは乙女へと振り返る。

相も変わらずヤギのままの姿の乙女は、もの言いたげな風情でアーサーを眺めていた。


「お願いがあります。

 村に出る前に、一旦人間に戻ってください」


「……あら。

 確かにそうだわ。このまま飛び出したら村の人に驚かれちゃう」


盲点だったとばかりに慌てふためきながら、乙女はヤギの擬態を解く。

──それは実に奇妙で、そして不可思議で、神秘さを伴った光景だった。


ヤギの身体がぐずぐずと、空中へと溶けてゆく。

それはまるで春を迎えた氷柱が、水へと移り変わっていくようなもどかしさに酷似していた。

ぐずぐずとぐずぐずと、ヤギの輪郭が形を保てずにゆるやかに崩壊していく。

それでありながら肉体が腐り落ちていくかのようなおぞましさは、全くもって付随していなかった。


その巨大な角も、先ほどまで触れていた麻色の艶やかな毛並みも、冷たい獣の瞳も。

そのすべてがさらさらと溶けながら、少しづつゆるやかに変貌していく。


巨大な角だった箇所は、ミルク色の髪へ。

麻色の艶やかな毛並みやその威風堂々とした体躯は、陶器を彷彿とさせる無機質な白い肌を備えた肢体へ。

黒々とした獣の瞳は段々と色を失い、冷たい輝きはそのままに真珠の眼へ。

獣の面が人のかんばせを取り戻していく瞬間を目の当たりにして、アーサーはただ呆けたように見入っていた。


「さて、こんな感じだったわよね。わたしって」


ヤギの全貌が崩れ、それが人の形へと移り変わるまでにいささかの時間も必要としなかった。

まるで最初から、そこに存在してなかったかのように。

アーサーの目と鼻の先には、確かに慣れ親しんだ乙女の姿があった。


まろやかな頬に、平均よりは小さい鼻と口。そしてやや垂れ気味で穏やかな眼差し。

どれも数分前に見た顔(もの)と寸分違わない。


「……ん。

 身長がちょっと以前とは違う気がしますが。

 まぁ、大体は」


「え。あらやだ。間違えちゃった?」


しかし獣から人へと形を戻す際。乙女は少しばかり、いや大いに采配を間違えた。

つまりはうっかりと以前より大分縮んでしまったのだった。

乙女は日頃、16,17歳の女性の姿で暮らしている。


だが今、彼の目の前にいるにはそれよりも相当に幼い8,9歳前後の子供であった。

うろたえる乙女の姿をアーサーはしげしげと観察し、ふと思う。

「これはこれでいいんじゃないか?」と。


「ごめんなさいね。すぐ戻るから」


「あっ、いえ。

 これはこれで貴重なので暫くこのままでお願いします」


「はい?」


単刀直入に言ってしまえば当たり前だが、アーサーは乙女の小さな姿の頃は見たことがなかった。

これはまたとない貴重な機会である。

絵心があれば残しておきたいという衝動に駆られるアーサーだったが、

生憎彼には芸術方面の才覚に優れた祖父や母と違って、そういった類の才能に恵まれてはいなかった。


「この絶好の機会に是非とも記憶に留めておかねばならない」と決意した彼は、

内心の心算などおくびにも出さずに、爽やかな笑顔で告げる。


「お、いや私。ずっと妹が欲しかったんですよ。

 なので暫く……私がいいと言うまでは、そのままでお願いします」


はぁ、と乙女が気の抜けたような声を上げた。

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