ニ話 孤独な世界-lonely world-(ロンリーワールド)
"ピチャン"
音か聞こえた。
覚醒し始めた意識の前に広がるのは馴染みのある暗闇。
今自分が瞼を閉じているのか開いているかもまるでわからない。
瞼一つ動かす事さえ出来ずに倒れ込んでいた。
瞼を開くだけの事がこんなにも億劫だと思う日が来るとは思いもしていなかった。
手足にまるで力が入らない。
暗闇の中を力なく只々漂っていると小さな針が額を突き刺す刺すような…いや、冷たい氷に触れた瞬間の冷んやりとした刺激を感じる。
心と身体に深く刻まれた絶望的なまでの恐怖と苦痛が眉間に蠢く様に集まって…
◇◇◇
「アアァァぁぁぁ!?」
死んで…ない?…………?
パニックを起こしながら飛び起き、胸に手を当て荒立った息を必死に抑えようとした。
ボンヤリとした頭を覚醒させようと顳顬を摘んで何があったのか思い出そうとする。
今の今まで自分がどの様な状況に陥っていたのかまるでわからない…
覚えていない…というのもあるが、余りにも想像を超えた出来事があった様な気がして、目の前に広がった景色も相まり理解が全く追いついていない…
何があったのか思い出すことはできず、必死に思い出そうとしても思考が曖昧になっていく奇妙な感覚…
何故死んだなどと錯覚していたのか?一体何が起こった?
頭の上に重苦しい何かを感じた。
不安な様子のまま周囲を見回す。
そこは辺り一面が柔らかな青白色の光を放つ半透明の不思議な岩肌に囲まれた荒野が広がっていた。
荒野の遥か先には同様の岩が積み重なった岩壁が周囲を囲んで崖の様になっている。
距離感が未だ掴めていないが、首を真上に向けて見上げる程に高い壁は並の高層ビルよりも遥かに高いだろうと感じた。
不安な気持ちを抱きながら恐る恐る視線を真上に向けると、沢山の巨大な角のような岩が不規則に幾つも絡まり合い、光ひとつない漆黒の空に向かって吸い込まれる様に聳え立っていた。
「なんだこれ……」
これまで生まれ住んでいた世界では見た事の無い、ある筈も無い光景に純粋に感動しながらも言いしれない不安と恐怖が心を支配していく。
ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ……………
その余りにも幻想的でありながらも陰鬱とした景色を呆然と眺め、座り込んだまま呆けていると腹から空腹を知らせる音が鳴りだした。
直後に耐えがたい飢餓感が腹の底から湧き上がり、力なく身体を項垂らせる。
「…今日は朝から飯、食ってなかったな…」
踏み場の悪いゴツゴツとした地面には所々に窪みがあり、その中には水が溜まっている。
朝から胃に何も入れていなかった所為かどうかは分からないが、酷い空腹感と喉の渇きに襲われていく。
加えてこれまでの異常事態を理解する事ができない思考は正常な判断を完全に失っていた。
周りを見渡しても食糧になるものは何も無い。
足元には岩の窪みに溜まった不純物等何一つない透き通った煌く水がそこら中にある。
ゴクッ…
渇いた口の中から無理矢理滲み出た唾を飲み込む。
喉の渇きが極限に達し、徐に窪みに口を近づけていく。
尻を突き出して窪みに被り付き、唇を窄めて必死に水を吸いとろうする野生動物顔負けの三十路を迎えた男の姿があった。
「ハッ!」
まさに舌先に水が触れるかどうかというところで身体が固まり、自我を取り戻した。
何をやっているんだ俺は。
まさか無意識の内に犬猫の様に水溜りの水を舐める様な行為に及んでしまうとは…
そんな事を考えながらも既にこの止まる事の知らない飢えからくる欲求を抑える事等出来る筈もなかった。
唇が水に触れ潤された事で再び理性は弾け飛び、無我夢中で舌を弄りながら必死に水を口に含み飲み込んだ。
瞬間、その水が自身の知る水とは全く違う事に気付く。
果実の爽やかな味わいでありながら濃厚な甘味と、相反する様なピリピリと舌を刺激する癖の強いスパイスにも似た激しい刺激。
清らかな水と芳醇な果実が長い年月をかけて味わいを深め絡み合い重ねていったかの様な濃厚な甘味。
ミントの様な辛くも透き通る清々しい爽やかさを持つ刺激が水を流し込んだ喉奥から舌先へと伝わる奇妙な感覚。
異変を感じて吐き出しそうになるが既に液体は胃に流れ込み、染み渡る様に空腹を満たしていく。
その感覚と共に胃が活性化でもしたのか熱湯を注ぎ込んだかの如く激しく熱くなり、更なる渇きが奥底から込み上げてくる。
「はぁ…はぁ…まだだ…もっと…」
その窪みの水を飲み干してからの行動は余りにも悲惨というか…
誰かに見られていれば一生外を歩けないだろうと後悔するほどにみっともない姿だったと思う。
目に映る水溜りに向かって何かに取り憑かれた様に這いずり回りながら手当たり次第、その水を飲み干していく。
仕舞いには遥か先に見えていた筈の岩壁に頭を強くぶつけるまで無我夢中で地面を這いずり、窪みを舐め回し続けていた。
「はぁ…はぁ…何をやっているんだ俺は…」
窪みに溜まっていた水が綺麗に無くなった道筋を眺めながら濡れた口元を汚れた裾で拭う。
腹の具合は幾分かはマシになり、飢えと渇きは多少治まったが、水だけではまだまだ物足りないといった腹心地だ。
目が覚めてからどのくらい時間が経ったかは判らない。
しかし少しばかり満たされた腹と目覚めてからこれまでの時間の中で、今になってようやく平静を取り戻し始めた様な気がする。
「いつの間にか岩壁まで来てしまった。これは…登らないといけないのか?」
これまでの出来事を思い返してみるがこんな未知の場所で何も調べてさえいないのに、何かを考えても答えなど出る筈も無い事は即座に思い至り諦めた。
先ずは必要な情報を収集する事が必要だ。
こんな状況に陥りながらも割と冷静にやるべき事を考えられる自分自身に驚きを感じたが、これこそが自身の数少ない長所であり致命的な欠点である事を自覚している。
良くも悪くも取り敢えず波風立てずに物事を処理しようとする思考。
意見や反感を聞く事が面倒くさいと切り捨て、確実に無駄だと思う事でも異論する事を放棄し、手の掛かる内容でも互いが折衷できる手段で手早く折り合わせようとするなんとも投げやりな考え。
納得ではなく折衷するというのが味噌だな。
仕事の性質故か自身に根差した本質故かは分からないが、問題解決ではなく問題解消に対しての意欲は無駄に高いと自負している。
解決すべき問題も解消すべき原因も全く定まらないこの状況下では幾ら考えても答えは出ないだろうが…
先ず必要なのは此の場所に関する「情報」だ。
これが無ければ次にとるべき行動も導き出せない。
故に今やれる事は情報を集める事が先決だ。
このまま何もせず、只只呆けていても状況が変わる事は多分無いだろう。
次は…情報を集める手段だ。
今出来る事は歩き回って周辺状況の確認と取るべき行動を定める為の手段もしくは手掛かりを探すくらいだ。
一つ目はこの荒野を虱潰しに歩き回り、新たな道なんかを探していく手だが、無我夢中で岩壁まで辿り着いたとはいえ、それはあくまで一直線だったからだ。
この広大な荒野を隅々まで探索するとしたら果たしてどれだけの時間が掛かるだろうか。
窪みに溜まった水らしきもので空腹は凌げるかもしれないが、幾ら探しても新たな道が見つかる保証はない。
此処から見渡す限りでは足場は悪いが視界は開けている。そんな中でも先に続く洞窟の様なものは見当たらない。
二つ目はこの岩壁を登り、周辺状況を俯瞰して確認する事だ。
岩壁は上までかなりの高さがあるが、岩肌は大きな岩が積み重なり大きな階段が積み上がったちょっとした崖道の様になっているため、登ろうと思えば何とか登れそうだ。
途中、攀じ登らなければ進めない場所もあるかもしれないが道は比較的足場は広そうだ。
崖道というより蛇行した険しい岩道が上まで続いていると言った方が分かりやすいか。
登りきったとしても同様に新たな道がある保証はないが、崖を登りきった先で俯瞰して荒野を眺める事でより多くの情報が得られるだろう。
食糧は水筒の様な水を持ち運べるものがあれば良かったが都合良くそんなものがある筈もない。
ある程度は我慢する他ないか。
最悪、引き返してくれば水も手に入るからさほど問題はないだろう。
まずは見える範囲で確認できる情報を可能な限り多く把握したい。
苦労はするだろうが、この岩壁を登る事が一番効率良く情報を集められそうな手段だ。
「これを…登るのか…」
改めて上を見上げると…かなり高いな。さっきの考えを少し否定すべきかと考えてしまった。
岩壁の様子を見る限り、下手を打たなければ落ちる様な事は無さそうだが、崖の頂上付近から落ちてしまえば確実に身体がミンチになって弾け飛ぶ高さだろう。
一見してみれば奈落の底と言ってもいいこの風景。
蜘蛛の糸一本でも目の前に垂れ下がってきてはくれないかと願わずにはいられない。
決して登りたいとは思わない。しかし登らないと話が進まないだろうから仕方なく…まるで俺のこれまでの人生の様だ。
「はぁ……行くか。」
それからはひたすらに岩道を進み、時に飛び移り、時に壁を攀じ登りながら順調に上に向かっていった。
空腹感はあるが不思議と疲れは感じない。
登り始めた時は筋肉痛や肉離れを懸念していたが、どこ吹く風と言わんばかりに快調に身体が動いてくれている。
現在、目測で高層タワーの展望台によくある下を覗ける強化ガラスから観た景色と同じくらいの高さまで登ってきたが息一つ切らさずに登れている。
違和感を感じたが、いくら考えても理由が分かる訳ではないので問題を棚上げして更に上へ登り進めよう。
途中洞穴の様な横穴もあり、幸いにもそこで休息と補給ができた。その横穴には風呂釜程の大きく深い水溜りがあり、荒野で口にしたものと同じ水の様なものが溜まっていた。
見つけた時は思わず本能のままに飛び込む勢いで水溜りに顔を突っ込んで飲み干してしまったな…
どうにもおかしい事なのだが、この水の様なものは幾ら飲んでも胃が満たされない。
それでいて飲めば飲むほど止まらなくなるというか…目の前にある限り際限なく飲み続けたいという衝動がどうにも止まらない。
既に自身の体積を遥かに超える量を飲み干している筈だが飲んだ質量は一体どこに消えていっているのか…
とりあえずこの水の事は不思議水(仮)と名付けておこう。
保存できるものがあれば後から調べて何かわかるかも知れないが、持ち物はいつの間にか何処かに行ってしまったしな…
中腹辺りにある横穴から顔を出して上を見上げると空想上の世界樹を思わせる程に巨大な太さを持つ水晶の柱の数々が交わりながら天に向かって不規則に伸びている。
その柱の根本には無数の青白い小さな光が漂い、まるで藍色の桜が満開に咲き誇る様に広がった光景が見える。
「綺麗だが、なんか嫌な予感がするな…」
しかし心惹かれる様な景色とは裏腹に、底に居た時に微かに感じていた程度の言いしれない恐怖というか重圧が更に重苦しくなっていく様に感じた。
其れは子供の頃、暗闇を怖がっていた時に感じた本能に訴えかけてくる様な根源的な恐怖にも似た体の奥底を震わせる感覚に似ている。
姿形すら分からないがこの恐怖には絶対に抗えないのだと、ここまで来て言うのもなんだが、この先に足を踏み入れてはいけないのでは無いかと無言で訴えかける只ならぬ重圧を感じていた。
どうやら始めに居た底とは違う風景がこの先にはある様だ。
少なくとも元の世界とは全く違う世界である事は明白だ。
もしかしたら自分以外の生物が彼処にいるかもしれない。
雰囲気的には強大な力を持つ巨大な怪物や獣の類いが襲って来る可能性すらある。
この先は周囲の安全を確認するまで細心の注意を払って行動する必要があるな。
冒険や探索などゲームの中でしか経験した事がないド素人の俺でもこんな離れた距離から警戒を意識してしまうほどの威圧が上には漂っているようだ。
疲れは未だ感じないが多くの予想を超えた出来事に遭遇し、精神的にも疲弊している為か次第に眠気に襲われていく。
横穴の奥に身を隠し、その日は言いようの知れない重圧に背を向け、蹲りながら寝静まった。
「異世界だろうと元の世界だろうと独りなのは変わらないか…」
これが夢であればという願いと、再びあの孤独な日常に戻りたいのか?という二つの疑問を自問自答をしながら…
目が覚めても景色は変わらず見慣れない岩肌に囲まれた横穴の中だ。
溜息を吐きながら淡い願いを諦めて再び上を目指す。
「あと…もう少…しだ。」
その後大きな問題もなく順調に登り進め、あっという間に頂上に手を掛けた。
元々一度集中すると一段落着くまでひたすら作業に没頭する性分と昼夜の移り変わりがない事で時間の感覚がかなり曖昧になっていた。
それでも底にいた頃から今まで体感で二日くらいは経っていると思う。
最後の岩をよじ登り顔を覗かせると、そこには心を揺さぶられるような更なる幻想的な光景が目の前に広がっていた。
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