三話 黒泥の女−hate-(ヘイト)
青白く淡い光が花弁の様に舞っていく。
目の前には水晶の原石にも似た鉱石の様な外皮を持つ木々が青白色の光を放つ幻想的な森が広がっていた。
木々の透き通った幹の中心には真白の光と青黒い影の様なものが反発しながらも求め合う様に絡み合い、青白い柔らかな光を辺りに発している。
頭上には木々の枝葉から発っしているだろう光の粒子が満開の桜が咲き誇るかの如く一面を埋め尽くし、散りゆく花弁の様に辺りに揺蕩っていた。
その光は青白色の光の中に仄かな紅を纏う色彩を放っている。
光量によって濃い紺から紫、紫から薄い桜色、そして真白へと変わるグラデーションが春風に舞う桜を想起させつつも桔梗の様な艶やかでありながら清楚な気品を漂わせている。
枝には一際強い光を放つ蜜柑程度の大きさの水晶玉が所々に実り、周囲に揺蕩う光の粒子を取り込みながら神々しい輝きを放ち明滅している。
「すごいな……水晶でできた大樹、なのか?」
桜の様に咲き誇る光の粒子は揺蕩いながらも重力を完全に無視して、下から上にゆっくりと舞い上がっている。
地面は底の荒野と相反して大理石のように滑らかな表面で極薄い水の層が張っているようだ。
木々から発せられる柔らかな光を反射して時折鏡のように地表の鏡像を映し込ませていた。
振り返って元いた底を覗き込むと始めに居た時よりもほんの僅かに水が溜まっていた。
恐らくは地表の水が流れ落ちているのだろう。
空を見渡すと中腹から見えていた幾つもの水晶の巨大な柱が檻の様に周囲を取り囲み何かの形を成すかのように天に向かって聳え立っていた。
前方の遥か先の空にはガラスが割れた様な巨大な亀裂の数々が云い知れない存在感を放っている。
目の前の木々に近づき光の粒子が集まる所に手を伸ばした。
触れた瞬間、光は飛散し周囲に広がって視界を遮る。指先に触れた光は肌で水を取り込む様に染み込んでいった。
気付けば光が全身に群がり、触れたその全てが身体へと吸収されていく。
次第に光は消え、元の景色に戻ったが周囲に主だった変化はない。
身体も特に違和感は無かった。
敢えて言うなら「気が充実した」などの目に見えない感覚的なものが微かに満たされた様な気分になった程度だ。
それよりも出来るならこの満たされていない空腹感を満たしたいと思っているのだけれど…
視界に光の粒子の中で強い光を放つ水晶玉の様な塊に目が向かう。
「あの幹に絡まってるあの玉は…食えるのか?」
手を伸ばし一番近くに実っている塊を人差し指で触れてみる。
むにゅっ。
見た目に反して柔らかく固めのゼリーの様な弾力があった。
枝に手を伸ばして根本を掴み、捥ぎ取った玉を観察する。
ツルツルとした肌触りで指差し続ければ水袋を破く様に中身が溢れるのではないかとも感じた。
徐々に力を強めて突いても、引き伸ばしてみても一向に破れる様子は無く、力を緩めると元の丸い玉に戻る。破れない水風船みたいだ。
舌先で玉を突ついて舐めてみる。
「仄かに甘い…これは…いけるんじゃないか?」
口の中に広がる甘味が唾液を大量に分泌させ食欲を強く駆り立てる。涎を垂らしながら歯を立てて噛み切るように齧り付いた。
「むん…ぐぅ…噛みひれん…。」
必死に手を左右に振り、引っ張りながら噛み切ろうとしたが玉は伸びるばかりで噛み切れない。
「んむぐっ……んーーーーーーーーっっっ!!!!」
食い物では無いのかと諦めて口から離そうとするとその玉はみるみるうちに溶け出し、意思と反して口の中に流れ込んでくる。
反射的に溢さぬ様に飲み込み手で口を覆った。
慌てて口を閉じると玉は一瞬で液状となり喉の奥底に流れ込んでいく。
「ごほっ!がはっっ!かっはっ?……」
唐突に泥泥としたものが喉元に入り込み咳込んだが不思議と苦しくはない。
次第に口の中が想像を超えた味と香りに包まれていく…
その味は不思議水の様でありながらも比較にならない程に濃厚な味わいで腹の底を満たしていく。
不思議水と違いしっかりと胃に物が入る感覚があり、先ほどまで感じていたら空腹感が一瞬で解消されていく。
しかし全てを飲み込み満腹感で満たされても更に湧き上がる食欲が留まることなく溢れ出し、気付けば二個、三個と次々に玉を毟り取り口に放っていた。
不思議水もそうだったがこの玉も本能に訴えてくる様な抗えない程の強烈な依存性を感じる。
辺りに実った玉は数こそ少ないが必死に見つけ出しては駆け寄り一心不乱に玉に齧り付く程に。
一度満足しても目の前にあれば恐らく無意識に食らい付いてしまうだろう。
ゼリー状のかっぱえびせんだな。
やめられない止まらない。
幾つ食べたかも数えられないが辺りの見つけられる限りの玉を貪り尽くした頃には次第に欲求も落ち着き腹もひと心地ついた。
身体中が充足感と満腹感で満たされ幸せを感じながら仰向けになった。
ここにくる前から数えてもかなり久方ぶりの幸福に浸りながら暗闇の空を眺めた。
食欲が満たされたのならば再び探索を開始せねば。
玉を見つけ出す為に結構な距離を探し歩いてしまったが、地面から草が生えていない所為か登ってきた崖がある方向は確認できる。
物語なんかでは一度森に足を踏み込むと森の中で迷い込むなどの展開は多いが、実際は目印になる様な物や道筋の風景の記憶がある程度脳内補完されて方向感覚を覚えている様だ。
樹海や砂漠などで道に迷う要因の一つであるリングワンダリングなどは似た風景が続くというだけで無く地理的な条件なども相まって方向感覚を失い、迷った本人の癖や左右の足の長さの違いによる直進歩行の偏りによって促進されると聞いたことがある。
幸いにも空を見上げれば巨大な水晶の柱の形状が目印になっるため迷う事はそう無いだろう。
再び崖の方に戻り、上から崖の底を俯瞰しながら森の方にも目を向けつつ崖に沿って歩いていく。
気休めではあるが出発した場所に煙草の箱を置いておいたから、何事も無ければ一目で一周したかどうかが分かるだろう。
道中森の方で見つけた玉を貪りつつ、理性で本能を必死に押さえつけてポケットに仕舞い込む。
見えさえしなければある程度我慢できる様で、耐性が付いたのか空腹感を感じていた先程に比べればある程度は衝動を抑える事もできた。
歩きながら目にする光景を元に思考を再開させ情報を一から整理していった。
多分というか間違いなくここは「夢」か「異世界」だろう。
夢なら覚めれば問題解決だが覚めて欲しくない気も…いやいや、そもそもこんなリアルな夢なんてあるのか?
味は感じた、痛みは…痛い。自分の頰を叩き夢かどうかを確認したがやはり夢だとは考えられない。
仮に異世界だとして、果たして元の世界に帰れるのか?そもそも俺はあんな世界に戻りたいのか?……
いや、たとえ元の世界がこれからも孤独で希望もない日常が待っていたとしても俺にはやらなければいけない事が…あった筈だ…
何かを忘れている?
それは多分、自分にとって最も大切な何かであると即座に理解した。
しかし幾ら思い出そうとしても、それが何なのかは記憶に霧がかかっているかの様に何も思い浮かばない。
だだ溢れ出す感情だけが確かにそれは在ったのだと訴えかけてくる。
思い出そうとして過去の記憶を脳内で振り返っていく。
学生時代の事は覚えている。
中卒からバイトを初めて実費で必死に両立しながら高校に通い、大学を諦め手に職が付く職に就職し、1日平均約18時間労働という黒より黒いブラックな業務の中で技術を磨き、なんだかんだで結婚して人並みの幸せを手に入れたと思っていたら僅か数年で離婚…
その後は現実から逃げる様に職場や居住地を転々として、気付けばこの荒廃した不思議な世界にいた。
これまでの経緯はある程度覚えている。
しかし後半は所々の記憶が曖昧だ。この世界に来るまでの出来事などカケラも思い出せない。
思い出した過去の出来事の中でここまで想い願う様な出来事があったとも思えない。
恐らくはこの世界に来る前の出来事も幾つか記憶が欠けている…のか?
記憶を思い出すほど元の世界に未練など一欠片も感じなかった。
しかしこの気持ちが何から生まれるものなのか、それだけは確かめなければいけない。
帰還方法は…探さなければいけないか…。
ぶつぶつと独り言を口にしながら更に考える。
目的は「元の世界への帰還」だ。
目的が決まったなら次は現在の状況確認だ。
食糧は先程見つけた玉が所々に実っている。
幾つかは非常用としてポケットに保管しているし探せば手に入る状況だから現状は問題ない。
周辺環境に関しては俺の常識では測りしれない状況なので、見て感じた感想しか言えないので一部割愛しよう。
見る限りで怪しいのは空間の裂け目と呼ぶに相応しい周囲を取り囲む幾つものヒビ。
雰囲気だけで判断すると別の空間に繋がっていそうだ。
そして登っている途中からより強く感じる様になった言いようの知れない重圧だ。
愚かにも本能に負けて玉を所構わず貪っていたわけだが危険な怪物などに遭遇することはなかった。
それどころか生物の気配が微塵も感じられない。
しかし身体中に纏わり付くこの背筋が震える重圧は一切拭えない。
正直、長時間此処に居続けたいとは思えないな。早くこの大穴を一周りして此処から離れたい。
今の所、周囲に人らしき存在も一人としていない。
物語だと異世界召喚物なら召還元の誰かしらがいるんじゃないのか?いれば話は早かったんだが。
辺りを見渡し途方に暮れながらも、ひたすら歩き続ける。お先は真っ暗だが足を止めては状況は何も変わらない筈…
目の前に女が立っていた。
ずっと前方を見ていた筈だ。
視界を遮るものは何もない。
遥か先を見渡しても確かに誰も居なかった。筈だ。
何も無い所から突如姿を現した黒い泥を全身に纏った其れは体型だけで女であると判別出来た。
肌の隅々まで泥に塗れているのか闇の塊が形を成しているのか判別できないその姿は人間でないという事だけは確信できる。
今この瞬間まで女の存在を全く認識していなかった。
しかし女は始めから其処に居たかの如く静かに佇んでいる。
突然の出来事に息が詰り、女から放たれる禍々しくも重苦しい重圧が体の動きを完全に停止させた。
二人の間を沈黙が包む。
「スベテヲカナエルチカラガアルトイワレタ」
頭の中に陰鬱な片言が響き渡り脳髄を震わせる。
鳥肌が総毛立ち、身体中の熱が全て奪われたかと錯覚し震え上がった。
「ノゾミヲカナヘテホシイトネガワレタ」
女の唇は動いていない。
身体も微動だにしていなかった。
しかし、女は俺との間の距離をいつの間にか詰めていた。
俺は瞬きすらしていない。
目の前で姿を消した様子もまるで無かった。筈だ。
吸い込まれる様な深海の奥底にも似た青黒い瞳が睨むでも無く微笑むでも無い、泥で作られた悲壮が混じる表情で此方を見つめ続ける。
「ダカラ、ネガツタ」
目の前に居た筈の女が突如消えたかと思うと背後から悍しい気配が放たれる。重苦しい重圧がより一層増す。
声すら出ない。しかし意識が吹き飛ばされそうになる。
自身の眼玉が目の前の光景を否定しようと無意識に白眼になりながら意識が混濁していきそうになるが、それでも意識を離す事をその女の存在が許さない。
「デモ▪️▪️▪️ハシンダ」
禍々しい憎悪の塊。
背後の女が動いた気配はやはりまるで無かった。
しかし一度視界から消えた筈の泥の女は、音も無く、鼻先が触れる程の至近距離で再び眼前に現れた
「ダカラノゾンダ」
女は言葉を続ける。
「ナンドモヤリナオシタ」
一瞬緩んだかに見えた泥に塗れた女の表情は再び悲壮な表情を向け俺の顔に手を伸ばしてきた。
「ナンドモナンドモ」
女の手が頬に触れる。
氷の様に冷たい指先が耳元を掠めその両手は頭を包むように撫でながら耳を塞いだ。続く言葉に呼応する様に手に力が篭り頭を鷲掴みにしていく。
「ナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモイツマデモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモエガオガナンドモナンドモナンドモナンドフレテモナンドモズットナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモイッショニナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモイラナイナンドモナンドモナンドミタクテモナンドモナンドモナンドモナンドモズットナンドモナンドモナンドモナンドモホシクテナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモイツマデモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドイタクテモナンドモズットナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモナンドモ」
発狂した様に言葉を繰り返す女を目の前に、命の危機を悟った。
目から涙が、鼻から鼻水が、口から泡が込み上げて、身体中から汗が吹き出し、足は諤諤に震え上がっている。
逃れ得ない恐怖に身体だけでなく心までもが途方も無い絶望に絡めとられていた。
同時に先程から感じていた体の奥底を震わせる禍々しい重圧の根源がこの女である事を本能が確信した。
震えて声さえ上げられない。
爪を立てて頭を鷲掴み掴まれ、頬から血が滴る。
顔を握り潰されるような痛みに襲われるが眼前に在る恐怖が指先一つ動かす事を許さない。
女の言葉に重なるように激しく鼓動する心臓の音が精神を更に掻き乱していく。
「アレハ▪️▪️▪️ジヤナカツタ」
掴まれていた両手の力が緩み女の首と両腕が重力に従うように力無く垂れ下がる。
「シネナカツタ」
地面に突っ伏したまま女は言葉を紡ぎ出す。
「シニタイ シネナイ シニタイ シネナイシニタイイラナイシネナイシニタイシネナイシネナイイラナイシニタイシネナイシニタイシネナイシネナイシニタイシネナイシニタイシネナイ…」
再び同じ言葉を何度も繰り返し、頭を掻き毟る女は何かを思い出したかのように顔を上げ、瞳の中を覗き込む様に顔を近づけてきた。
「ナラ ケシテシマエバイイ」
言葉が放たれた瞬間、周りに揺蕩う光の粒子が一斉に女に収束し女を包む泥が爆発する様に溢れ出した。
泥は津波の様に辺りを蹂躙し、全てを呑み込んでいく。
其れは俺自身も例外でなく視界が一瞬にして泥に遮られた。
目の前で広かった泥は触れる感触もなく体をすり抜けていき暗闇が周囲に広がっていく。
眼前にいた女は泥の中に塗れ、目の前から忽然と姿を消していた。
女が消えた事により身体の硬直が溶けて項垂れる様に膝を折り地面に突っ伏した。
「っはぁっ!はぁはぁはぁ…」
止まった心臓が急に動きを再開したのか、激しく荒くなった呼吸で蒸せ返りそうになる。
やがて周囲に広がった泥は消える様に色を失っていき次第に視界が戻っていった。
「はぁはぁはぁ…」
地面に突っ伏したまま頭が上がらない。
身体中の力が抜け落ちて指先一つ動かせなかった。
「うぅ…ぐすっ…」
先程の憎悪の塊の様な存在の女とは全く違う気配を前方に感じた。
重圧や気配などではない。
呻き声の様な音が耳に微かに聞こえてきた。
目の前を確認しようと汗に塗れた額を拭い、力を振り絞って恐る恐る頭を上げる。
其処には美しく輝く濃紺の衣に包まれた幼げな少女が蹲る様にして倒れていた。
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