第4話

「ちょっと後で時間とれる?」


 彼女の姉…もとい、もう「先輩」と呼ぶのがいいのか…が、俺にだけ聞こえる声の大きさでつぶやいた。


 研究室を出て大学生協の学食の脇にあるベンチに座る。空調が効いていて涼しい。


「わざわざこんなことするの…あいつの件ですか?」

「うん、とりあえず報告」

「すんません、お手数かけて」

「いえいえこちらこそ」

「「はー…」」


 あれからひと月経って、大学の夏期休暇も終わり後期の授業も始まっている。あれからあいつとは会っていない。俺は未だに喪失感や雄としての敗北感に苛まれている。これが続くようならメンタルヘルス的なケアをしてもらう必要があるかもしれない。とはいえ、落ち着きは取り戻せたと思う。


「だいぶ落ち着いてきた?こないだより随分マシな顔になったと思うけど」

「そうですね…まあ、うーん…なんかもう死にたい、とか思わなくはなりましたね」

「そういうこと言わんでよ…ってまあ、仕方ないのかもしれないけどさ」

「すみません。もう言わないです」

「それで妹の方なんだけどね」

「はい」


 背もたれに寄りかかるのをやめて、背筋を伸ばした。


「あれからこのひと月、最初はろくに食事も取らなかったけど、あの子も今はだいぶ落ち着いて来てる。ご飯も食べてるし、今は授業にも出てるよ」

「…それは良かったです」


 素直にほっとしたことに自分でも驚いた。


「それでね…あの子は、復縁を望んでる」

「んーーーーー」


 思わず天を仰いで、そして蹲り、両手で顔を覆う。


 あの日、九年続いていた恋は終わったと思った。実際、あの前日まで持っていたあいつへの愛情が今同じようにあるかというと、無い。でも、好きか嫌いかといえばやっぱり好きだ。でも裏切られたショックとか怒りとか悔しさとか敗北感とかそういうのがごちゃごちゃ混じりあってて、それこそ憎さ百倍ってやつだろう。決して無関心ではない。


 苦しい。忘れたい。あの頃も忘れたいと思っていたけれど、手に入れていなかったぶん失う痛みはなかったし、純粋に恋い焦がれていただけだった。


「ごめん!ごめんね…」


 隣に座る先輩が慌てて俺の頭を抱えて抱きしめる。


「まだ早かったね。ごめん、今は忘れて…」

「大丈夫です。泣いてないです」


 ちょっと泣いたけど。


「というか、復縁ですか…よく言い出しますね」

「まあ、ね…」


 先輩は俺から離れて、膝に肘を置いて両手に顎を載せた格好で、ちょっと迷うような顔をする。


「ええとね…、今回の事は完全にあの子が悪い。それは間違いない」

「………」

「ただ、あの子の言い分もわかるところが…あ、待って!」


 立ち上がってその場を去ろうとする俺の手を先輩が掴んで止める。


「完全にあいつが悪いって言いながら、俺も悪いって言いたいんですか?」

「違うから!お願い、おちついて!ね?」

「すいません、落ち着きます」

「…あの子の行動は完全にあの子が悪いわ…でもね、その行動に至るまで、あなたたちにすれ違いみたいなものはなかったかなって」

「………俺とのセックスが物足りなかったって話だったんじゃないんですか?」


 奥歯を噛みしめるギリっという音が先輩にも聞こえて、先輩がつらそうな顔をする。


「すみません、先輩にそんな顔させたくはなかった」


 俺は他の女性を見るようなことは全くしなかったし、あいつが嫌うような言動もしないようにしている。これは昔からあいつを見ていてどういうことをするとあいつが嫌がるかというのを熟知しているからだ。それこそ脳内でマニュアル化して、随時更新していた。


 そして将来についても独りよがりにはならずに常にあいつに話をして、希望があれば聞いて、でも決してあいつの言いなりにならず、二人でビジョンを作ってきたつもりだ。


「いったい何ですれ違っていたって言うんですか」

「それを、あの子はあなたに話したいみたい」

「先輩はそれを聞いてるんですか?」

「えーと、うん、まあ…」

「聞かせてくれます?」

「うーん…ええとね…細かい事は聞いてないんだけどね」

「はい」

「セックスのこと」

「やっぱりそれかよ!」


 傷口に塩を塗りたくられている気分だ。

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