湿原の死闘—セス—前編
自分が持つ恩恵『半減』。
対象が自分自身のみとは言え、様々なものを半分にしてしまう力。
それを初めて話した彼女、フィルミナは『随分と、強力な恩恵じゃのう』と評した。
間違っていなかった、正しかった。
泥濘で常にこちらの足を絡めとろうとする湿原、走ろうとしても上手くいかない。どころか、数歩も進まぬうちに転んで泥だらけになるだろう。
そうならずに駆け続けられるのは、『吸血鬼』の——鬼の脚力を操血術で強化する——力で無理を押し通しているに過ぎない。
駆け出した頃は、それこそ必死だったが……今はだいぶ楽になっている。
もうこの湿原を走ることにも慣れた。すでに一直線ではなく、左右に振るように跳びつつ走るのも苦ではない。
体力はもちろん、操血術で消費する魔力や血液も相当軽くなっている。
それら全てを支えているのが、自分の恩恵である『半減』だった。
肩越しに振り返る。
変わらずにワーム共は湿原を崩しつつ、こちらを追い続けてきている。湿地帯に慣れる前こそ追いつかれ、音や勘でワームの突撃を何とか躱していた。
だが、湿原の疾走に適応した今はもうそんなことはない。
走る速度、不規則に揺さぶる跳躍、それにワーム共は対応できなくなっている。
……そろそろか。
懐にある匂い袋は残り一つ、逃げ続けるわけには行かない。
これが切れた時、ワーム共がフィルミナたちの方に行くと取り返しがつかなくなる。
走りつつ深呼吸し、心身ともに覚悟を決める。
操血術……すべきは短期決戦。
ありったけの力を込められるようにイメージをする。
両手持ちの長い柄、穂先に三日月を模ったような鋭利な刃……首を、命を、ひたすらに刈り取る形状へ。
人の膂力では、到底扱えない領域へと。
『良いか? 操血術にも弱点はある。その一つが『バランス』じゃ。例えば……物質精製と身体強化、これらをどちらも限界値まで活用するのは無理じゃ』
フィルミナの指導を思い出す。
『熟練度で左右されるのはあくまで完成度、本人100%の力をどちらも同時に捻りだすのはほぼ不可能じゃ。いうなれば……全速力でマラソンしつつ、精巧なトランプタワーを組み続けるようなものじゃな』
そう、多様な効果を発現出来るとは言え、あくまでそれは『操血術』という一つの枠組みでしかない。
それを、無理矢理に実現させる。
自分の物質精製と身体強化の、限界点に達する『まで』を半減する。
全身を巡る力を維持したまま、両の手に処刑大鎌を精製する。
牽制も防御も考えない、一撃のみを重視したものだ。
踏みとどまり、身を翻してワーム共に向かっていく。
刹那で適当な一匹に狙いをつけ、湿地が爆ぜる。と同時、握りしめた大鎌を標的に振るう。
猛り狂うワーム共も跳び越え、湿地を裂いて着地。再びワーム共に向き直り、振るった大鎌を構えなおす。
大鎌を振るった一匹の首が落ちた……これで残り19匹!
はぐれる、または向こうに戻ったワームはいない。
跳び越える際に捉えた、一瞬であったはずのそれでも正確に数えることが出来た。五感も同様に強化されている。
……!
全身が軋む。
たったあれだけでも、自分に莫大な負荷がかかっていることを、嫌でも自覚させられた。限界までの助走を半減し、物質精製と身体強化の限界値を強引に引き出しているのだ。
長くは持たない。だが、それでいい。
こちらの事情など一切解さず、湿原を切り裂きワーム共が再び殺到してきた。
理性や知性の代わりに、無尽蔵とも言える体力に頭を落とさなければ死なない生命力を持っているのだ。
こいつら相手に、ちまちまと戦っても不利にしかならない。だからこそ、一撃必殺と離脱のみを……いや、それしかできないほど、無理な状態を維持しているのだ。
凄まじい勢いでワーム共が迫っているはずだが、強化された眼にはコマ送りにしか見えなかった。
身体能力だけではなく、五感も極限まで強化されている。
冷静に狙いを定め……再び湿原を踏み出す。
襲い掛かってきたワームの首を一閃で刎ねる。
さらに最初の振り抜きと大鎌の重さを利用してもう一振り、別方向から迫ってきた奴を断つ。
一振り、一動作ごとに身体が悲鳴を上げるが……止めない!
自分から跳び込み、全身を使った回転攻撃で切り抜け、さらに二匹。
さっきのも合わせて五匹! 残り15匹!
やれる! このまま一気に……なんだ? ワーム共がこない?
先程まで我先にと襲い掛かってきていたのに、今はこちらの様子を見るかのようにしている。
そんな知能があるのか?
いや、これはただ単に……本能か。
向こうがこちらを獲物や餌ではなく、天敵として見始めているのだ。
「ギィ、ギィィィ……」と控えめだが、相変わらず不愉快な鳴き声でこちらを威嚇している。
一歩踏み込むと、ワーム共も僅かに引く。
「……クソ!」
思わず毒づく。
短期決戦と思い切ったらこれだ! 知能を本能でカバーするな!
こんな無茶苦茶な状態、あと3分持つかも怪しいってのに!
落ち着け、焦るな。
仕切り直しと考え、左から回り込むように駆け出すとともに懐から取り出した最後の匂い袋を、自分の胸に叩きつけて潰す。
これで打ち止め、もう逃げるという選択肢はない。
「ギィィィィィィ!」
どうだ? と思考で問いかけるまでもない。
戸惑っていたワーム共が目の色を変えてこちらに殺到してきた。連中の食欲を強烈に刺激する匂い袋には抗えない。
所詮は虫か。本能で危険を察知しようと、その本能自体を揺さぶってやればご覧の通りだ。
向かってきたワームの命を大鎌で奪う。
また一つ、首が落ちた。
他のワーム共も止まらない。
本能に任せたまま、巨体と数による暴力が間断なく押し寄せてきた。こちらもひたすらに大鎌で答え続ける。
一閃、二閃、三閃と、さらに三匹の首を刎ねる。
残り、じゅういち……
ガクン、と芯から力が抜けていく感覚。
巨大な疲労感と倦怠感が体を満たしていく。
そのせいで、振りかぶっていた大鎌のバランスが崩れる。
嘘だろ、こんなに早く……?
寸秒の隙。
無論、それは押し寄せる暴力の波——ワーム共——には絶好のチャンスとなった。
「くっ!」
苦し紛れに大鎌の柄でワームを受け止め……きれない!
並んでいる牙に噛まれることこそ防げたが、巨体から伝わる衝撃は踏ん張り切れなかった。弾き飛ばされ、手毬のように湿原を転がされる。
一撃で全身が水と泥にまみれる。それを吸った服ですら、拘束具であるかのような錯覚が襲ってきた。
大鎌を杖代わりに立ち上がろうとするが……それだけの動作が千里の道を踏破するよりも辛く感じる。
無理の代償と吹き飛ばされたダメージで、体が悲鳴を上げているのだ。全身に鉛の塊を括り付けられたかのような感覚をたっぷりと味わう。
今度は別のワームが突撃してくる。
同じように柄で止め、湿原を転がされる。
マズイ! どうにか切り返さないと!
思考とは裏腹に、力任せの突撃を無様に受け損なうしか出来ない。幼児が面白半分に投げたボールのように湿った大地を跳ねる。
牙と直撃を避けているが、その衝撃だけでも消耗した体には芯に響く。
返すにしたって、首を落とさないと再生して意味がない!
一転、今度は11匹のワームが自分を玩具のように痛めつける。いや、単純に食欲のままに食い殺そうとしているだけだろう。
それを、どうにか避けている。
消耗が大きすぎる! 一手も無駄にできない!
最適かつ最善に動かないと……どうしようもなくなる!
攻撃するにしても、その後に別の奴の攻撃を受け止めていては意味がない!
本当に、そうか?
心の奥、自分の思考に冷静な指摘が響いた。
状況そのものが、最悪中の最悪を引き当てたんだぞ?
湿地に適した魔物がいることは予想していた。または知性を持つ厄介な魔物が潜んでいるかもしれないと、仮定を立てていた。
そんな中、絶対に遭遇したくないパターンがあっただろう?
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