6-4

   *


 翌日は二時の飛行機で札幌まで帰ることになった。車で(色々あったとはいえ)三日掛かった道のりが、飛行機では三十分足らずというから世の中というものはわからない。

 飛行機の時間まで余裕があった。僕は綾瀬さんに誘われ、根室の街を歩くこととなった。

 坂をずっと下っていくと、やがて港に着いた。魚のにおいがした。あちこちで海猫が鳴き、倉庫の隅では本物の猫が脚を放り出し昼寝をしていた。七蘂と同じオホーツク海に面していたけど、氷はこちらまでは張っていなかった。

 僕たちは船着き場や倉庫の傍を通り抜けた。

 突堤の先端に立つと、水平線の彼方が灰色に霞んでいた。恐らくそこが七蘂沖の、凍り付いた海の辺りだった。

 鳥の鳴き声と波の音。それ以外には何も聞こえない。

「平和だね」綾瀬さんが言った。「七蘂のすぐ傍なんて嘘みたい」

 僕は頷いた。

「こんなに近くてもずっと遠くのことみたいに感じちゃうんだ。案外、距離なんかアテにはならないのかもしれないね」

「そうですね」

 札幌だろうと、東京だろうと。そこが〈七蘂でない〉ことに変わりはない。

 綾瀬さんの言わんとするところはわかった。つまり、どこにいようが関係ないということを彼女は言おうとしてくれていたのだ。

「あ、そうそう忘れないうちに」と、彼女はずっと手にしていた花束を差し出してきた。「これ、退院祝い」

「ありがとうございます」ずっと手に持っていたから、くれるつもりだということはわかっていたけど、それでも嬉しいことに変わりはなかった。「でも、いつの間に買いに行ったんですか?」

「ああ違う違う。それ、桃香から」

「桃香が?」

 大きめの波がテトラポットに当たって砕けた。

「来たんですか? いつ?」

「昨日ね。その花、渡しといてくれって」

「直接来てくれればよかったのに」

 きっと桃香は、まだ怒っているに違いない。金網の穴を教えてくれた時だって、結果的に僕は彼女に嘘を吐いてしまったのだ。たぶん、もう関係を修復するのは不可能だ。

「色々あるんだよ、女の子は。だからこそ、あんたにはやらなくちゃならないことがある」

「何ですか?」

 僕の問いに、綾瀬さんはニンマリと笑った。

 また大きな波がテトラポットに打ち寄せた。

 それからしばらく、僕たちは黙って灰色の雲に覆われた水平線を眺めた。もう大して話すことはなかった。僕たちは旅の道連れとして、するべき量の話をしたのだと思った。

 水平線に立ちこめるのは、見ているだけで寒々しさを覚える雲だった。僕は、今もその雲の下で氷漬けになっている父さんの船に思いを馳せた。デッキに付けた足跡や、操舵室の様子を想像した。そんなことを考えていたら、顔に雪の粒が飛んできたような気がした。錯覚だろうけど。

 七蘂の海といえば、忘れちゃいけない存在がいた。

「車、戻ってくるそうで良かったですね」言ってから、綾瀬さんにだって旅の目的があったのだ、と思い出した。僕のことばかりに、彼女を振り回してしまった。「大分寄り道させてしまいましたけど、これで捨てに行けますね。トランクの荷物」

「何だ、覚えてないの?」綾瀬さんは肩を竦めた。「アレのお陰で助かったようなもんなんだよ、あたしたち」

 あの紙束が? 僕が気付いた時には車は走らなくなっていて、そもそも何故か軍用ヘリに追い掛けられていたわけだけど、そこで紙がどう活躍したのかは、上手く想像が出来ない。けど、綾瀬さんにとって辛い思い出が、こうして今に繋がっているのだから良いかとも思った。

 僕のスマホに、母さんからのLINEが届いた。そろそろ時間とのことだった。港の方を見ると、タクシーが停まっていた。

「行く?」

「はい」僕は腰を上げた。

 綾瀬さんも立ち上がったので、僕は彼女を制した。

「あの、ここでいいです」

「ここで?」

「見送り――」僕は言った。「今なら、上手く別れられそうな気がするんです」

「何それ」綾瀬さんが笑う。「もしかして泣いちゃうとか?」

「かもしれません」そうは言ったものの、泪の気配はなかった。むしろ、もっと厄介な気持ちが〈旅の終わり〉を邪魔立てしようとしていた。

「わかった。一穂が言うならそうしよう」

「ありがとうございます」僕は軽く頭を下げた。「では、これで」

「うん」

「本当に、ありがとうございました」

「こちらこそ」

 僕たちは互いに頭を下げ合った。

 踵を返し、歩き出す。

 だけど、すぐに脚が停まって、振り返ってしまった。

「あの、綾瀬さん」

「なに? 告白?」彼女は意地悪な笑みを浮かべ、肩を竦めた。

「元気な赤ちゃんを産んで下さい」

 意地悪な笑みがそのまま優しい微笑みに変わっていく。母親のような、大らかな笑みだ。

「ありがと」

 僕は頷き、前へ向き直り、再び歩き出した。

 けれど、真っ直ぐ伸びている筈の突堤は水に浮かべたゴザのように歩きにくかった。僕が前進するのを拒むように、上手く歩かせてもらえない。

 いや、前進を拒んでいるのは僕の脚だ。

 どうしてこんなことをする?

 何だって僕の脚は、いや、僕は前に進みたくないんだ?

 考えてみたけど、答えには辿り着くことが出来ない。

「一穂なら大丈夫だよ」

 不意に後ろから、綾瀬さんの声がした。

「ここまで歩いてきたんだから、これからだって歩いて行けるよ」

 海鳥の鳴き声も、潮騒も聞こえなかった。

 ただ綾瀬さんの声だけが、世界にたった一つ残った音のように、僕の耳に届いてきた。

 彼女の声が続く。

「でも、もし大丈夫じゃなくなったらさ、その時は、腹の底から大声出しな。あのカラオケの時みたいに。誰かが気付いてくれるかもしれないし、自分の気持ちも少しは楽になる」

 振り返ろうかどうか迷った。

 散々迷った末、結局僕は振り向いた。


   *


 意外にも一穂は泣いていなかった。いや、彼はナヨナヨはしてるけど、実は涙腺は硬い方なのだ。

 むしろあたしの方がヤバかった。顔に掛かった髪をよけるフリをして、親指で目尻を拭わなければならなかった。風が強くて助かった。目が赤いのだって鼻を啜るのだって、全部風のせいに出来る。

 本当を言うと、一穂が戻ってきてくれることを期待していた。別に疚しい心があってそう思ったんじゃない。寂しかったのだ、単純に。

 だけど、彼は戻ってこなかった。

 その場に立ったまま言ったんだ。

「綾瀬さんも、どうかご無理はなさらずに」

 晴れ晴れしい顔だった。

 それはこの旅で初めて見る表情だった。そしてその顔が、ここまでの旅の終わりを告げていた。

 あたしは笑った。

 一穂も笑った。

 波の音が、再び耳に戻ってきた。

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