6-2

 幸いにも、綾瀬さんは軽い打撲だけで大事ないということだった。お腹の子にも別条はないらしく、これが何より嬉しい報せだった。

「人ンちのことより自分のこと心配しろよな」

 隣合って中庭のベンチに座った綾瀬さんは僕の肩を小突いた。僕は情けない笑みを漏らした。

「薬、飲んでなかったんだって?」綾瀬さんは言った。

 彼女の言う「薬」とは、僕が父さんの船の中で開けた瓶の中身のことだ。僕はあれを飲まなかった。

 正確には飲〈め〉なかった。

「最後の最後で勇気が出ませんでした」

「そういうのは勇気って言わないんだよ」

 僕は頭を叩かれる。それで思い出したことがある。

「そういえば、船の中で父さんの声を聞きました」

「声」綾瀬さんは繰り返した。

「五年前の事故の時、最後に言われた言葉です。それがはっきりと聞こえてきて」

「へえ」言いながら、綾瀬さんは頬杖を突いた。「『一穂、母さんを頼んだぞ』的な?」

 僕は彼女の方を見た。

「エスパーですか?」

「うそ、図星?」

「綾瀬さん、何かそういう仕事に向いてるんじゃないですか?」

「どういう仕事だよ」

 笑っていた綾瀬さんが何かに気付いた。誰かが来たらしい。

「ごめんね、一穂。あたし、あんたにまだ言ってなかったことがあるんだ」

「何です?」

 僕の問いには答えず、彼女は立ち上がった。その視線は僕の後ろに向けられていた。

 そんなことをされては、振り向かないわけにはいかなかった。

「ま、あんたもうちで大きなお節介焼いてくれたんだから、お相子ってことで」

 その時は、綾瀬さんの言葉の意味がよくわからなかった。というより、深く考えている余裕がなかった。

 肩を窄める母さんの姿を見るなり、僕の頭の中は真っ白になってしまった。


 僕が札幌を離れた晩、母さんは既に異変に気付いていたという。

 伯父さんの所に電話し、その他、心当たりの場所には片っ端から僕の所在を訊ねたらしい。警察に言わなかったのは、あまり性急に大事にしない方がいいという伯父さんからの助言と、綾瀬さんからのLINEだった。

『お宅の息子さんは預かりました』

 字面だけ見るとなかなか物騒なこの言葉はしかし、息子の行方を不安に思っていた母さんには朗報だった。少なくとも、僕がどこかで生きていることがわかったから。

『しばらく適当に旅行して、それから札幌へ連れて帰ります。連絡はこまめに入れるようにしますので、警察にはどうかご内密に。もちろん、息子さんに手を出したりはいたしません。身代金もいりません。まあ、必要経費として後でガソリン代ぐらいはいただくかもしれませんが』

 狐に抓まれるとはこのことかとよくわかった、と母さんは僕に語った。

 それから、綾瀬さんからは逐一、写真と短いメッセージが届くようになったという。

 実際の画面を見たけど、最低限の文章と写真(僕の寝顔まであった)が何通も並んでいた。場所からして初日の夜からずっと、僕の家出は綾瀬さんに守られていたのだ。のど自慢のことも、綾瀬さんの実家でのことも、七蘂で昔の家に行ったことも、母さんは全て知っていた。

 ただ一つ、海で何があったかは知らなかった。母さんは僕がホワイトアウトに遭って、町の外れで遭難したのだと聞かされているらしかった。

 たぶん、僕の取調べを行った人々がそう言ったのだ。そして綾瀬さんも、本当のことを伝えなかった。前者は自分たちの都合から。後者は、僕たち親子のため。そんな風な見方は、さすがに子供じみているだろうか。

 母さんは頃合いを見て僕を七蘂まで迎えに来るつもりだったらしい。けれど、ここで彼女自身に問題が生じた。

 どうしても、七蘂に足を踏み入れることが出来なかったのだ。

 七蘂に父さんが眠っているという事実は、僕が考えている以上に大きく重く、母さんにのし掛かっていたに違いない。そんな簡単なことに、僕は今まで気付かなかった。五年間も同じ屋根の下で暮らしていながら、自分の痛みにばかり夢中になっていた。

「情けないわね」母さんは恥ずかしそうに笑った。

 僕は俯き、病院着の裾を握った。

 僕の方こそ。

 だけど言葉は、喉で支えて出てこなかった。

 フッと息の漏れる音がした。顔を上げると、母さんが竦めていた肩を落とし、微笑んでいた。

「帰ろっか」

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