5-12

 どこまでも真っ白で平らな世界が続くばかりで、なかなか陸が見えてこない。行きで付けた轍を辿っているから、方向は間違っていない筈だったけど。

 そうこうするうちに、いよいよエンジンが聞いたこともないような音を立て始めた。これで巨大ロボットにトランスフォームでもしてくれるなら有り難かったけど、バラバラにならずに走っていることが既に奇跡的なのだから高望みは出来なかった。

 誰かが雑にキーボードを叩くような音が聞こえた。

 かと思うと、窓の外で雪が連続して三回跳ねた。

 同じようなものを、映画で観たことがある。戦争映画だ。

「嘘……だろ?」

 けど、呆然としている暇はなかった。野生の勘か左脳が急に活発になったかは知らないけど、あたしはハンドルを切った。そうしなければ、今度は屋根に穴を空けられていた。

 歯を食いしばる。震えないわけがない。

 これほど明確な殺意を誰かに向けられるのは初めてだった。

 今度は助手席の向こうで雪が跳ねた。急いで逆側へハンドルを回したけど、サイドミラーを砕かれた。

 陸は、まだ見えない。

 逃げるのが無理なら戦うしかない。

 そんな考えが浮かんだけど、走るのが精一杯の小型車が空を飛ぶ相手に何が出来よう。車でヘリに突っ込むブルース・ウィリスの映画があったけど、あれだってジャンプ台みたいなのが近くにあったから出来た話だ。このオホーツク海の上では、斜めになった氷からせいぜい数メートル飛ぶのが関の山だった。

 唇を噛むと同時に、今度はリアガラスが砕けた。金属を金属が穿つ音もする。ハンドルに、何かに押されたような別の力が加わった。

 その気になれば、相手はこちらをすぐにでも仕留められた筈だ。だけどそうしないところに、絶対的な悪意を感じずにはいられなかった。あたしたちは構図としては猫と鼠だけど、猫は狩りが目的ではなく、鼠が恐怖するのを楽しんでいた。

 窮鼠猫を噛むって言葉がある。もちろん、この言葉の通りの事が成せたらかっこよかったのだけど、世の中そんなに上手くはいかないものだ。

 でも、噛みつくことは出来ずとも、猫騙しぐらいならお見舞い出来た。

 ガン、と車の後部で決定的に何かが砕けた。

 車体は大きく左右に振れ出し、ハンドルは押さえているのがやっとだった。

 と、金属の板が飛んでいくのがルームミラー越しに見えた。

 続いて、何十枚もの紙が一斉に巻き上がっていった。

 金属の板は、トランクの蓋だった。

 巻き上がっていった紙は、札幌から積んできた〈荷物〉――いや、加賀谷があたしから盗んでいった〈作品〉の数々だった。

 あ、とは思ったけど、どうせ捨てるつもりだったのだから惜しくはない。むしろ、この状況から救ってくれるのなら、これ以上の使い道はなかった。

 サイドミラーの中で、紙に視界を遮られた〈雀蜂〉が体勢を崩した。

 さすがに墜落までは望んでいなかったけど、目論見通り、引き離すことには成功した。

「しっ!」ガッツポーズ。

 けど、喜ぶのはまだ早かった。

 さっき思い浮かべた斜めの氷――それが現実に現れたのだった。

 何の心の準備も出来ないまま、あたしたちを乗せたハンプティ・ダンプティは空中へ飛び上がった。

 端から見れば、上がり掛けた跳ね橋を渡る要領で弧を描き、再び雪に着地したに違いない。映画や何かだとそのまま走り去るところだけど、場所も車もドライバーの腕も、全てが悪かった。横転しなかっただけまだマシで、着地の衝撃でスピンしたハンプティ・ダンプティは、ちびっ子が悪ふざけした遊園地のコーヒーカップみたいに勢いよく回り、やがて氷の突起にぶつかって停まった。

 あたしは三半規管にダメージを負ったけど、ここに来てまで車内で吐いてはならないという自制心が働いた。臭いが取れなくなるは悲劇だと自分に言い聞かせ、我慢した。

 シートベルトを外し、助手席で頭を垂れる一穂を揺すった。

「う、うう……」

 唸るだけで目を覚まさないので、頬を軽く叩いてみた。すると、ゆっくりと瞼が開いた。

「綾瀬……さん……?」

「動ける? てか、動いてもらわないと困るんだけどさ」

 外ではまだ、プロペラの音が響いていた。しかも再び大きくなりつつあった。

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