5-11
*
この旅で二度目の物損事故。しかも今回は、他人様の漁船に当ててしまった。
ボンネットの先が明らかに拉げていたけど、気にしている暇はなかった。あたしはエンジンを掛けたまま車を降り、船によじ上った。
デッキに転がり込み、足跡を辿って操舵室へ行く。
「一穂!」
果たして、計器に突っ伏している少年の姿があった。ちょっと疲れたから眠っているような、穏やかな寝姿だった。
それでもあたしは飛ぶように駆け寄り、彼の肩を揺すった。
「しっかりしろ! 寝るな!」
計器の上には水の入ったペットボトルと、瓶が置かれていた。
水の方はもちろん、瓶のラベルにもあたしは見覚えがあった。加賀谷に盛ったのと同じ薬だったのだ。
「馬鹿……」
目覚めない一穂の脇に入り、肩を貸す形で操舵室を出た。
小柄だとはいえ、相手は中学生男子でこちらはか弱い乙女である。彼を運び出すのは、なかなか骨の折れる作業だった。
問題は、船の縁から下へ下ろすところだった。いくら雪が積もっているとはいえ、突き落とすことには躊躇した。
だけど、そんな惑いもすぐに消えた。
初めはトラクターでも走っているのかと思った。
やがてそれが、ヘリコプターの羽根が回る音に変わってきた。
遠くからやって来る真っ黒なそれは、映画や何かでよく見る、軍用のものだった。下に機関銃とか付いて、ミサイルとか飛ばしてくるアレ。頭が勝手に「ワルキューレの行進」を再生した。乗っているのはたぶん、潜水艦の持ち主たちだろう。
定例の見回りなのか、あたし(もしくは一穂)が来たせいなのかはわからないけど、いずれにせよ楽しい対面にはならないことは目に見えていた。あたしはなるべく柔らかそうな雪を探して、一穂を船の縁から突き落とした。そして自らも飛び降りた。
一穂の体を助手席に詰め込み、あたしは運転席へ回った。シートに座り、右手でハンドルを握る。
ギアに手を掛けた時、エンジンが切れていることに気付いた。
「おいおいおいおい」
キーを回すけど、死にかけの猪が咳き込むみたいな音がするだけで、エンジンは掛からない。
サイドミラーの中では、雀蜂のような見てくれのヘリがぐんぐんと近付いてくる。距離の割にプロペラの音が大きい。
「お願いだよ、ハンプティ」あたしは心の底から言った。人間相手にだって、こんな真剣に何かを頼んだことはない。「これが最後で良いからさ!」
君も覚えておくといいけど、頼み事をする際にこの言葉は絶大な効果を発揮する。心ある者なら大抵は「最後」と聞いたら頑張らずにいられなくなるのだ。もちろん、多用は禁物。口癖にすると信用も人望も失うから気を付けて。
で、ハンプティはといえば、あたしの願いを聞き入れてくれた。言葉は交わせないけど、彼にも心はあるのだ。
鰯の頭も信心から?
それで結構。願いで復活する機械なんて、ロボットアニメみたいでカッコいいじゃん。
一旦後退し、切り返して走り出す。
〈雀蜂〉は、氷に突き刺さったような柱(あれがたぶん潜水艦だったのだ)を素通りして飛んできた。どう楽天的に考えてもあたしたちを追ってきているようだった。
廃車寸前だった中古車と軍用ヘリでは、小学生とトップアスリートが五〇m走を行うようなものだ。当然、あっという間に追い付かれた。
スピーカー越しに何か言われたけど、音割れやこちらのエンジン音やうるさいプロペラのせいで上手く聞き取れなかった。日本語なのか外国語なのかも定かじゃない。読み取るような余裕だって、あたしにはなかった。わかったのは取り敢えず「停まれ」と言われているらしいことだけだった。
だけど、そんなこと言われて停まるなら、そもそも逃げ出したりはしないのだ。あたしは尚もアクセルを踏み、ゴムの焼けるようなにおいがどこからか漂い出してもアクセルペダルを踏み込み続けた。
一見すると平らな雪原も、海面が凍っているとあって走ってみると案外凸凹していた。車体は上下に揺れ、大きく跳ねることもあった。
とにかく岸まで。
根拠は何もなかったけど、陸地に着けばどうにかなる気がした。ヘリは追い掛けてこないだろうと。
でも、その陸地が遠かった。
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