5-8
*
凍った地面も何のその、あたしは歩く、歩く、歩く。
「待てよ、話は終わってないぞ」後ろから、加賀谷も付いてくる。冬靴じゃない彼は、さっきから何度か足を滑らせていた。「一体何を企んでるんだ。え、綾瀬?」
あたしは構わず歩き続けた。
『一穂、戻っていますか?』ホテルに掛かってきた電話の声が、耳の内側に蘇る。
「戻ってないけど」あたしは答えた。「あの子がどこ行ったのか知ってるの?」
惑うような無言。
「教えて。一穂はまだこの街にいるの?」
『海に』と、桃香は言った。
「海?」
『海を見に行くって言ってました』
「でも、海沿いは立入禁止の筈でしょ?」
『入れる場所があるんです。明け方、あいつと会って、そこまで案内しました』
知らない間に、受話器を持つ手に力が入っていた。掌はじっとりと汗ばんでいた。
『海を見たら戻るって、あいつ言ってたんです。でも、何だか様子が変だったから気になって……それでもしかしたらって思って電話したんですけど』
もしかしたら。
その予感は当たっている気がした。少なくとも、あたしの中では既に「確信」だった。
昨日の夜、一穂の部屋の窓から見えた凍り付いた海。それを眺める、一穂の背中。振り返った時の顔。あそこで感じた、彼が遠くにいるような感覚は、気のせいなどではなかったのだ。
『ごめんなさい』電話の向こうの声は、深い井戸の底から喋っているようだった。『わたしのせいです。わたしが、あんなこと言ったから、あいつは……』
「たぶん、それだけじゃない」あたしは言った。「そうじゃない」と言えない辺りが、まだまだ子供だった。「だけど、あの子が戻ってきた時には、優しく出迎えてやってよ」
何も聞こえてこなかったけど、頷くような気配があった。
そしてあたしは電話を切ると、食堂に戻って加賀谷を引きずるようにして、ホテルを出たのだった。
修理工場のガレージでは丁度、主人がハンプティ・ダンプティのエンジンを吹かしているところだった。
「良いところに来た」
運転席から出てきた主人は、エンジンが温まったことを知らせてくれた。
「あまり無茶は出来ないが、普通に走る分には問題ない」
「そう。よかった」あたしはハンプティのボンネットを撫でた。「本当によかった」
「この中か?」加賀谷がトランクを開けようとしていた。けど、鍵は運転席からしか開けられない。「おい、トランクを開けろ」
「おじさん、お代はあいつが払うから」あたしは主人に言い置いて、車内に滑り込んだ。もちろん、ドアは内側からロックした。
「おい、綾瀬!」
加賀谷の声を無視して、アクセルを踏んでみる。なるほど、ここ最近聞いた中で、一番歯切れの良いエンジンの唸りだった。
窓に加賀谷が張り付いてきた。「開けろ」と言いながら、ドンドン叩いてくる。
あたしは構わずサイドブレーキを下ろし、ギアをバックに入れアクセルを踏み込んだ。
ガレージを後ろ向きで飛び出し、通りにまで出た。無いに等しい交通量が幸いして、何かにぶつかるということはなかった。
車を停め、再びアクセルを踏み込んだ。ガレージから駆け出してくる加賀谷を横目に見ながら、ギアを入れた。タイヤが甲高く鳴いたかと思うと、辺りの景色がアッという間に後ろへ過ぎ去った。サイドミラーに映っていた尻餅を突く加賀谷の姿も、すぐに見えなくなった。やがてあたしの頭からも消え失せた。
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