5-7
「し、失礼いたします……」
いつの間にか傍に、フロントにいた従業員が立っていた。あたしたちのただならぬ様子に気圧されていたらしく、薄く張った氷を爪先で確かめるように声を掛けてきた。
「森川様、フロントにお電話が入っております」
「電話?」
あたしがここに泊まっているのを知っている人間は限られる。もしかして、という想いが頭に閃いた。
「男の子ですか!?」
「いえ、女性の――というより女の子です。何でも、急いで確認したいことがあるとかで」
心当たりはない。
いや、あった。該当する人物が一人いた。けど、理由がわからなかった。
〈彼女〉があたしに何かを問う理由が。
あたしは肩をいからせ俯いたままの加賀谷を残し、フロントへ立った。
カウンターの隅に置かれた白電話を示されたので、受話器を取って耳に当てた。
「もしもし」
スピーカーから聞こえてきたのは果たして、あの桃香という女の子の声だった。
*
足がもつれ、前に倒れてしまった。
積もっている雪は薄く、氷が頬を擦った。冷たさの向こうから、遅れて鋭い痛みがやって来る。
腕で体を支えながら、起き上がる。顔や肘に痛みが残っているけど、気にしない。
あと少しの辛抱だ。あと少しで、全て関係なくなる。
さっきから前方に、氷山の影が見えている。それが僕の意識を引きつけてならない。
僕はそれが、ただの氷の塊じゃないことを知っている。
それが五年前、多くの人生を変えてしまった元凶であることを、僕は知っている。
近付くにつれ、影は山というよりは柱のように「立っている」ことが実感できるようになってきた。いや、「突き刺さっている」というべきかもしれない。
周囲の氷結の中心が、この場所なのだ。
潜水艦のエンジンから空気中に撒き散らされた化学物質は、周囲百キロに終わらない冬をもたらした。今は化学物質も放出され尽くし、潜水艦には事故の発生を告げる〈墓標〉として以上の役割はない。
そんな、三階建ての建物ぐらいはあろうかという〈墓標〉を僕は見上げる。雪と氷に覆われていて、元の色や形を見分けることは出来ない。けど、潜水艦としての面影は、表面の出っ張りなどから僅かに見受けられた。鯨の嘶くような音が聞こえるのは、この〈柱〉が風を奇妙に遮っているせいだろうか。
ここに潜水艦があるということは。
辺りを見渡すと、雪の塊がいくつか転がっている。「塊」といえば簡単だけど、どれも路線バス一台分ぐらいの大きさがある。
事故が起きた直後、潜水艦からの救難信号を受けて、七蘂漁協に所属する多くの漁船が救助に出たことは、世間でもよく知られた話だ。そして、犠牲者の大半が、そうした漁船の乗組員たちであることも。
一番大きな塊に近付いてみる。「父さんの船は七蘂で一番大きいんだ」というのが、父さんの口癖だった。
側面の雪は手で簡単に払い落とせた。何カ所か同じように雪を除いていくと、あった。
栄光丸。父さんの船の名だ。
僕は、雪に覆われた船体を見上げ、深呼吸する。
ようやく、ここまでやって来たんだ。
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