5-6

   *


 白と青だけで構成された世界の中を、僕は進む。

 振り返ると、真っ白な雪の上に僕が付けた足跡が点々と残っている。それを辿っていくと、海面に降り立った突堤の影が微かに見える。結構な距離を歩いてきた。

 幸いにして、風はない。むしろ厚着で汗ばんでいるぐらいだ。

 立ち止まり、リュックから水を取り出して飲む。陽はだいぶ高くなっている。頭の上を、大鷲が旋回している。僕が力尽きるのを待っているのかもしれない。

 ポケットからスマホを取り出し、Googleマップを立ち上げる。

 北緯43度、東経145度。その場所に、赤いマーカーを打ってある。見失うわけにはいかない、僕の目的地。今のところ、方向は間違っていない。

 息を整えてから、再び歩き出す。そうゆっくりもしていられない。桃香に教えてもらったフェンスの穴からここまで、足跡はくっきりと残っているのだ。それがエゾシカのものじゃないと気付いた誰かが、追い掛けて来ないとも限らない。

 視界の端で、大鷲が雪の上に降り立った。

 十メートルぐらい離れた場所だ。彼(もしくは彼女)は羽を畳み、置物みたいな格好でじっとこちらへ目を向けてきた。僕が力尽きるのを待っているのかもしれない。

「生憎だけど」僕は大鷲に向けて言った。「君の希望に添うつもりはないよ」

 相手は目をしばたたき、小首を傾げた――ように見えた。

 首元のマフラーを緩めた、その時だった。

 風が雪の粒を伴って吹き付けた。僕は目を瞑り、掌を顔の前にかざした。誰かが後ろから引いたみたいにマフラーは僕の首からすり抜けていった。

 あ、と思い振り返ると、真っ青な空の中を真っ赤なマフラーが舞っていた。

 天女が落とした羽衣のようにひらひらと空中を泳いだ後、マフラーは雪の上に落ちた。僕の足跡の傍だったけど、とても戻る気が起こらないほど後方だった。

 借り物のマフラーなのに。

 また綾瀬さんに借りっぱなしのものを増やしてしまった。

 頭を振り、後ろに対する意識を追い払う。

 進め、振り返らずに。

 そう自分に言い聞かせる。

 僕にはもう、前進以外のことをする資格はないのだ。


   *


「まあ、僕だって鬼じゃないさ」加賀谷は全身から優しさを掻き集めてきたような声で言った。「大人しく全て返してくれれば、今回のことは不問にしよう。妻も警察も、適当な理由を付けて誤魔化そうと思う」

「不問」あたしは相手の言葉を舌の上で転がした。気付けば腹に手を添えていた。

「もしかして、その子の認知を求めているのかい? それと慰謝料」

 認知。

 慰謝料。

 加賀谷の口から出てくる単語は、いちいちおかしな響きを持っていた。いや、端から見ればこの場に即していたのだろうけど、あたしの中ではロココ調で統一された部屋の中に宇宙船の探査ポットが置かれているぐらい場違いなものだった。

 また笑ってしまった。

「いらないね、そんなもん」

 加賀谷の片眉が僅かに跳ねたのを、あたしは見逃さなかった。

「この子はあたしの子だもん」

「だったら、何故こんなことをする」

「そんなの、理由なんて一つしかない」あたしは、今や全身を固く強張らせた加賀谷の、威嚇と恐怖がない交ぜになった瞳を見据えて言った。「あんたを困らせるためだよ」

 純粋にあんただけを、とあたしは添えた。

「奥さんや子供たちに恨みはない。ってか、あたしの方が恨まれる側だし。あたしはあんただけが苦しめばそれでいい」

 歯ぎしりが聞こえてきた。

「だから、この子のことであんたに何かを求めることもしない。あんたがはるばるここまで追い掛けてきただけで、あたしの目論見は半分が成就したんだ」

 加賀谷が喉の奥から搾り出すように言った。

「こっちが訴えたっていいんだぞ」

「そんなことになったら、一から全部赤の他人に話さなきゃいけなくなるんだけど? まさか何の動機もなく、こんなことする筈ないものね」

 眼鏡の奥から、レンズにヒビが入りそうなほどの鋭い眼光が飛んでくる。けどそれは、あたしを怯えさせるどころか、むしろ気持ちの余裕をもたらしてくれた。あたしたちは出来の悪いシーソーみたいに、片方がどんどん沈んでいき、片方は見る見る上昇していった。

「今まで通りの平和な家庭を維持したいんなら、ここで帰りな」あたしは奴を見下ろした。「あんたは、それを選べる立場にある。それがどんなに幸せなことなのか、よく噛み締めた方がいいよ」

「悪魔め」上目遣いでこちらを睨みながら、加賀谷は唸った。

「それはお互い様」あたしは言った。口角が自然と釣り上がった。

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