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 ここでちょっと昔の話をしよう。

 田舎の牧場を捨てて札幌に出たあたしには金がなかった。

 地元で一年掛けて貯めた分は、全て専門学校の学費と部屋を借りる際になくなった。まさか霞を食べて暮らしていくわけにもいかないから、仕事を探さなければならなかった。夜の空いている時間だけで生活費を稼ごうとすると、どうしても職種は限られた。

 昼は学校で勉強し、夜はニュークラで働き、日付が変わってから帰って課題をやって、また学校へ行く。そんな毎日を繰り返した。

 改めて振り返ると大変な日々を送っていたけど、決して苦痛ではなかった。自分が歩くと決めた道をちゃんと歩いている。歩かされているのではなく、自分の意志で歩いている。そうした実感が、背中を押してくれた。

 だけどそれも初めのうちだけだった。

 三ヶ月、半年と時間を経るごとに体にも気持ちにも疲れは着実に溜まっていった。一年も経つ頃には、自分を構成する全てに鉛がこびり付いているような気分になり、体を引きずるように学校へ行くことが多くなった。

 このまま自分は何者にもなれないのではないか。

 擂鉢の中をグルグル回りながら、最後は力尽きて底に転がり落ちてしまうのではないか。

 そんなことを始終考えるようになっていた。

 田舎にいた頃は、都会に出て、専門学校に入りさえすれば、自分が目指す世界の端っこぐらいには手を掛けられると思っていた。けど、実際学校に通い出してみると、行きたい世界とあたしの生きる現実の間には分厚く高い壁があって、突き破ることも乗り越えることも出来ないのだと思い知らされた。たしかに壁の向こうからは声が聞こえてくるけど、それは飽くまであたしとは無関係のものでしかなかった。

 ごく稀に、壁向こうの〈夢の国〉へ行ける者がいた。だけど、大半は壁を見上げるだけで二年間を終えていく。そもそも〈夢の国〉はそう大して広くもなく、そこからあぶれた人間も多くいた。あたしたちに教えているのが、まさにそういう人間だった。

 あたしはどうやら、壁を見上げるしかない側の人間みたいだった。それは、あたしが作った物を見るあぶれ者たちの顔色からもわかった。

 自分がとんでもない馬鹿に思えた。人の注意も聞かず勝手に荒野に踏み出し、お腹を空かせても助けを求める相手がいない。自分ではろくに獲物を仕留められず、木の皮をしゃぶって飢えを凌ぐばかり。毎晩寝床で目を瞑ると、そんな間抜けな自分が瞼の裏に映った。

 そういう時だった。加賀谷と出会ったのは。

 初め、彼はクライアントである背広姿の何人かと共に店に来た。うちのナンバーワンがテーブルに呼ばれ、あたしも酒を作るための添え物としてついていった。

 背広の一番偉そうなのとうちのナンバーワンが話す中で、彼らが広告関係の仕事をしていることがわかった。しかもその内の一人はデザイナーとのこと。あたしは、いつぶりだろうかと思うぐらい誠意を込めて酒を作り、真剣にお客の話に耳を傾けた。

 どういう流れでそうなったかは覚えていないけど、あたしが昼間はデザインの専門に通っていることが露見した。話題はすぐに別の方へ行ってしまったけど、お客の中の一人、唯一背広を着ていない黒縁眼鏡の男が興味を示してきた。彼は東京でも名の知れたデザイナーなのだと、一緒にテーブルに着いていた後輩が言った。

 あたしはデザイナーの隣に座り、彼と話をした。彼の仕事のこと。あたしが学校で学んでいること。業界のこと。その存在すら疑いかけていた〈夢の国〉の話が、そこにはあった。そしてあたしの隣に座るのは、その世界の住人だったのだ。言わずもがな、この黒縁眼鏡が加賀谷だ。

「もし良かったら、君の作品を見せてくれないかな」〈夢の国〉の住人が言った。

 それはあたしにとって福音みたいなものだった。悪魔の囁きかもしれないなんて、微塵も考えなかった。

 彼はあたしの作品を初めて褒めた人物でもある。しかも、「君には才能がある」という、夢に見るほど望んでいた言葉まで添えて。

 今にして思うと、こちらを油断させるためのリップサービスだったのだろうけど、当時のあたしにはちょっと筆舌に尽くしがたいレベルでこの言葉は響いた。なにせ〈夢の国〉の住人から認められたのだ。荒野を歩き続けてきたことを、間違っていなかったと言ってもらえたのだ。泪が流れる程度で済む話ではなかった。

「僕と組まないか?」加賀谷は言った。初めて出会ってから一月も経たない明け方の、ベッドの中で。

「君は、磨けば光る物を持っている。君に必要なのは学校で教わるような、マニュアルに書いてある知識じゃない。実地での経験だ。だからどうだろう、まずは僕のアシスタントとして、経験を積んでみては」

 全く迷いがなかったかといえば嘘になる。

 それでもあたしは頷いた。頷いてしまった。

 何かに縋らなければならないほど、弱っていたのだ。

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