5-2

 やがて桃香の足が止まった。

「ここ」彼女は振り向いて、眼で足下を示した。

 雪に埋もれた金網の下部に、穴が空いていた。丁度、人が一人通れそうな大きさの穴だ。

「ここからなら入れる」桃香は言った。

 僕は彼女に眼で問うた。

「散歩中に見付けたの。言っとくけど、空けたのはわたしじゃない。カメラもセンサーもこの辺りにはないから、見つかる心配もない。わたしが実証済み」

 彼女には、封鎖された海沿いに行く理由がある。彼女の両親は二人とも、あの事故の時、沿岸部にいたのだから。

「信用しないなら、別にいいけど」

「どうして?」僕にこの場所を教えてくれたのか? 警戒しているのではなく単純に、桃香の優しさが嬉しくて、訊かずにはいられなかった。

「さっさと散歩を終わらせて帰りたいだけ。寒いし」

 ムクが尻尾を振りながら白い息を吐き吐き、こちらを見上げていた。僕は肩をすぼめる。

「ありがとう」

「言っとくけど、中に入ったら犯罪だからね。いくら海を見に行くだけでも」

「わかってるよ。桃香のことも、もちろん言わない」

「そういうことじゃなくて」

 桃香は何か言い掛けて、口を閉ざした。

 風が雪の上を渡って吹き付けた。いつまでも桃香たちを引き留めておくわけにもいかないので、僕は金網の穴を潜り抜けた。

「出口もここしかないからね」

 立ち上がると、金網の向こうで桃香が言った。

「わかった」僕は頷いた。

 桃香は、僕の目を少しの間、じっと見つめてきた。

「海を見に行くだけなんだよね?」

 僕はまた頷いた。

 桃香の傍らで、ムクが唸り始めた。僕らが歩いてきた方を向いて、耳と尻尾をピンと突き立てている。誰かが近付いているのかもしれない。

「もう行って。僕は大丈夫だから」

 けど、桃香は立ち去ろうとしない。

「桃香」

 僕が急かすと、桃香は疑わしげに結んでいた口を開いた。

「ちゃんと、帰ってきなさいよ」

 心臓を掴まれた気がした。僕は、ぎこちなさを隠しながら頷いた。

 ムクの唸り声が大きくなる。僕らは互いに視線を交わし合ってから、背を向けてフェンスから離れた。

 雪の上を進みながら、一度も振り返ることはしなかった。

 ただ、「ごめん」と胸の中で桃香に謝っただけだった。


   *


 メイクも着替えもせずに、部屋を飛び出し転がるようにロビーへ降りた。誰もいないカウンターに駆け寄りベルを連打すると、すぐに奥から制服姿の女性従業員が現れた。あたしは己の素性を早口で伝えた。

「あたしと一緒に泊まってた男の子は!?」

 こちらの飛び掛からんばかりの勢いに一瞬たじろぎながらも、彼女はすぐに仕事の姿勢を取り戻した。

「朝早くに出て行かれましたけど」

「行き先は!? 何か言ってませんでしたか!?」

「さあ……わたしが見かけた時にはもう、出て行かれた後でしたので」

 従業員は、いかにも申し訳なさそうな顔を浮かべて言った。ここで彼女に食って掛かっても仕方がない。あたしは諦め、カウンターを離れようとした。すると今度は逆に呼び止められた。

「お客様を訪ねて来られた方が今し方いらっしゃいまして。レストランでお待ちです」

「あたしに?」問いながらも、これから何が起ころうとしているかは大体察しが付いた。

 最悪の事態が、最悪のタイミングで訪れたのだ。

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