5-1

   *


 少し寝坊をしてしまった。

 けど、僕が布団を畳み終えた時も綾瀬さんはまだぐっすりと眠り込んでいて、起きる気配はなかった。僕は息を殺して準備を整え、忍び足で部屋を出た。最後に一言、彼女の寝顔に別れを言い残して。

 ロビーを出ると、まだ夜は明けきっていなかった。昨日の朝、綾瀬さんのお父さんの車から見た日の出が遙か昔のことに思えるぐらい、ここの朝は真冬のそれだった。

 リュックを担ぎ直して、海を目指す。

 街はまだ目を覚ましていない。遠くで犬の声が聞こえた気がするけど、歩いている人は見当たらない。日が昇りきっても、そう大して変わらないのかもしれないけど。

 とにかく、そうした状況が僕に好都合なのは確かだった。お陰で、誰にも見咎められることなく立入禁止区域を囲むフェンスまで辿り着くことが出来た。目指す海は、このフェンスを越えた先にある。

 雪の中を横切るフェンスは、左右どちらを見てもずっと向こうまで続いている。高さは恐らく三メートル近く。金網なのでよじ登れないこともなさそうだけど、上部はこちら側に折れた反しになっているし、よく見ると有刺鉄線も張ってある。少なくとも、無傷で乗り越えることは出来そうにない。

 犬が吠えた。今度は、さっきより近い。

 辺りに監視カメラのような物はない。一つの街を丸々縦断するフェンスなのだ。その途中途中に逐一カメラを仕掛けたりすれば、相当な数に上るに違いない。だからたぶん、ないのだろう。僕は少しだけ大胆になり、金網を掴んで強度を調べ始める。

 また犬が吠えた。今度は大分近い――と思うや否や、獣の息遣いがすぐ傍で感じられた。そして振り向く間もなく、僕は何者かに押し倒された。

 声も出なかった。

 湿った息と、ザラザラして濡れた何かが顔の上を這い回る。毛むくじゃらの物体が、僕の体に覆い被さっている。

「こら、ムク!」声がした。女の子の声。続いて、雪をザクザク踏みしめる音も聞こえる。

 引っ張られるように、毛むくじゃらが離れていく。名残惜しそうな白い大型犬の顔が見えた。

「すみません、大丈夫ですか?」さっきの声の主が顔を覗き込んできた。

 まだ辺りは薄暗かったけど、僕は相手の正体を判別することが出来た。その声は、はっきりの耳の内側に残っていた。

「どこか打ったりしてませんか――」

 言葉が途切れたのは、向こうも僕に気付いたからだろう。

 空がいよいよ明るくなった。昨日見た日の出よりは明らかに光が鈍かったけど、それでもとにかく夜は明けた。

 僕は仰向けのまま、傍らに立つ桃香を見上げていた。

 桃香もまた、口を小さく開いたまま僕を見下ろしていた。

 犬が霞んだ太陽に向けて一声吠える。桃香はハッとして、次に眉間に皺を刻んで、黒い手綱を引っ張った。

「行くよ、ムク」

 だけど大型犬は、立ち去るどころか再び僕の方へ寄ってきた。雪に同化するように白い尻尾を振りながら、僕にのし掛かってくる。

「こいつ、あのムクなんだ」犬の頭を撫でながら、僕は言う。桃香たち姉妹が飼っていた白い子犬が同じ名前だった。あの頃からよく飛びついてくる人懐っこさを持っていた。「大きくなったね」

 ムクは自慢げに鼻を鳴らした。

「こんな所で何してんの?」そっぽを向いたまま、桃香が言った。

「海に行こうと思って」

「馬鹿じゃん? 全部封鎖されてるよ。ニュースで散々やってたのに観てないの?」

「知ってるよ」僕は身を起こした。「けど、行きたいんだ。どうしても」

 桃香は横目で、睨むような眼差しを向けてきた。やがて一つ白い息を吐き出すと、彼女はフェンスに沿って歩き出した。ムクもヒョコヒョコとついていく。

「こっち」肩越しに、桃香が振り向いた。

 僕は腰を上げ、彼女と彼女の犬を追い掛けた。

「こんな朝早くから散歩してるんだ?」

 返事はない。

「梨理は元気? 最後に会った時は年少だったから、今は三年生?」

 やっぱり返事はない。

「スケートは? まだ続けてるの?」

 桃香は無言で歩き続ける。彼女が立ち去らなかったのが嬉しくてつい質問攻めにしてしまったけど、決して心を開いてくれたわけではないらしい。だから僕も諦め、黙って足を動かすことに専念する。

 海岸の方へ目を向けると、朧な朝日が氷漬けの海を輝かせていた。本当はあってはならない光景なのに、見惚れてしまう美しさがそこにはあった。

 波の音は当然ない。けど、海鳥の鳴き声は聞こえた。彼らはどこで餌を調達しているのだろう? 魚を捕るのは簡単じゃない筈だ。海面に張った氷を嘴で突き破るのだろうか。それとも、雪や氷を舐めて生きているのか。そんなことを考えていたら、前を歩く桃香の声が思考に割り込んできた。

「あの人、彼女?」

「え?」何を訊かれたのか、理解出来なかった。

「一緒にいた女の人。あの人、あんたの彼女?」

「彼女」の意味が恋人を示しているとわかり、カッと顔が熱くなる。

「ち、違うよ!」

「じゃあ、何なの?」

「何って言われると困るんだけど……」僕は綾瀬さんとの間柄を表す最適な言葉を探す。

 警察に掴まりそうになっていたところを救ってくれた人。車に酔った僕を音信不通になった実家に連れて行って休ませてくれた人。七蘂まで連れてきてくれた人。それらを一言で表す言葉を。

「恩人、かな」僕は言った。「あの人がいなかったら、僕はここまで来られなかった」

 フン、と桃香はつまらなそうに鼻を鳴らした。

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