4-9
*
綾瀬さんの歌は、のど自慢大会の時とは打って変わって荒々しかった。ほとんどがロックで、しかもテンポの速い激しいものばかりだった。
飲み物を運んできてくれたママさんが嗄れた声で笑う。
「ひどい歌だね」
一曲歌い上げ、綾瀬さんがステージ(といってもちょっとしたお立ち台程度の物だ)から降りてきた。少し汗ばみ、息も切らした彼女は、満足げな様子だった。
「ほら、決まった?」
綾瀬さんの歌唱に圧倒されていて、本は開いたきり目を通していなかった。
「上手く歌わなくていいんだよ。好きな曲を好きなように歌えば」
「あんたのは好きに歌いすぎだよ」
ママさんの言葉に、綾瀬さんは氷のいっぱい入ったレモンスカッシュを一口飲みながら肩を竦めた。
好きな曲を好きなように。
僕はリモコンで曲を入れ、ステージに上がった。マイクを握り、テレビ画面を凝視する。やがて曲名が表示され、いかにも機械でアレンジされた曲が聞こえてきた。
大きく深呼吸し、口を開く。
それから僕たちは嵐のように歌いまくった。
最初はマイクを通した自分の声が自分のもののようじゃなくて、上手く歌えなかった。でも歌うごとに耳は慣れていき、やっぱり下手な自分の歌声が聞き取れるようになった。そして最終的には、全てがどうでもよくなった。音を外そうが歌詞を間違えようが、恥ずかしいことなんて何もなかった。
今まで生きてきて、こんなに歌を歌ったことはない。たぶん、知っている限りの歌を全て歌った。比喩ではなく、喉から血が出そうだ。
「そろそろ店、閉めるんだけど?」
カウンターで煙草を手にしたママが言った時、時計は十二時を回っていた。
「え、もう?」
「『もう?』って、もう十二時過ぎてんだよ」
「じゃあ、あと一曲だけ」
そう言って綾瀬さんは追加の曲を入れ始める。後ろでママさんが「ったく」と言うのが聞こえてきた。
流れて来たのは、綾瀬さんの選曲で、初めて僕の知っているものだった。
「この曲……」
モニターには『終わらない歌 THE BLUE HEARTS』と表示されている。
綾瀬さんが歌い出す。
やっぱり知っている曲だ。身体の奥底から、何かが湧いてくる。
気付けば僕は立ち上がっていた。
綾瀬さんは驚いていたけど、すぐに笑みを取り戻して、もう一本のマイクを差し出してきた。
僕は歌った。一心不乱に。
自分の声は愚か、演奏の音だってろくに聞こえなかった。頭の中ではずっと、小さい頃に車の中で流れていた曲が響いていた。
記憶の中に、鮮明に残っている曲。
父さんが好きで、いつも車の中で掛けていた曲。
僕はそれを、お腹の底から声を出して歌った。
海の彼方まで届かせるような大声で歌った。
曲が終わると、激しい目眩に襲われた。僕は膝に手を突いた。肩で息をしなければならないほど、苦しかった。
顔中から汗が垂れる。十キロぐらい走ってきたみたいだ。
「いい声じゃん」綾瀬さんはそう言って、紅潮した顔で笑った。
僕も笑った。
こんな気持ちは初めてだった。身体の中に沈んでいた澱のようなものが、すっかりなくなった気がする。体が、いや、気持ちが軽くなったみたいだ。
僕はまたしても綾瀬さんに助けられてしまった。最後の最後まで、僕は彼女の好意に甘えてしまった。どうにかして、少しでもこの借りを返したいけど、もう時間は残されていない。明日になれば、僕らはお別れなのだ。
明日になれば、僕は――
*
鳴り響くケータイのアラームを手探りで止めた。
普段なら二度寝を決め込むところだったけど、この日だけは意志の力が勝った。あたしは瞼をこじ開け、布団から体を引き剥がした。
カーテンの隙間から、朝日が射し込んでいた。
その真っ白な光は、畳まれた布団を照らしていた。寝具はきちんとシーツも外し、それぞれが折り畳んであった。そういうことをしそうな子に一人心当たりがあったけど、その本人の姿は見たらない。
二人で布団を並べて寝た筈の部屋には、あたし一人しかいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます