4-8
町外れの高台から水平線の蒼白い光を見たのは、翌七日の〇時二十分。尤も、そんな細かい数字は後になってから知ったことで、当時は時間の感覚なんてまるで麻痺していた。
次にある記憶は根室の避難所に着いた時のもので、明け方近かった気がする。それもごく短い。歩き疲れてヘトヘトだった僕は、毛布を受け取って床に腰を下ろすなり、泥沼に沈み込むように眠ってしまったのだ。
目を覚ましたのは昼過ぎ。おにぎりが配られたのを憶えている。
僕と母さんと、桃香と梨理と子犬とで集まっていると、桃香たちの叔母さんがやって来た。叔母さんは僕の母さんに何度も頭を下げながら、二人と子犬を連れて行った。これが、僕と桃香の別れとなった。
時間が経つ毎に、段々と七蘂のことがわかってきた。
蒼白い光が見えた後、冷たい突風が吹き付けたけど、あれは潜水艦のエンジンが爆発した際に生じたいわば爆風だった。潜水艦の周囲五十キロ以内は強い冷気で覆われ、海は凍結。七蘂の街も沿岸部を中心に、何もかもが一瞬にして氷漬けになった。
父さんは、いつまで待っても帰ってこなかった。
主に沿岸部で犠牲になった人々は、はっきりとその死が認められた。けど、潜水艦の乗組員を救助しに海へ出た人たちは、頑なに「行方不明者」として扱われ続けた。
事故から二日後の午前中、札幌の伯父さんが避難所へやって来た。札幌から車を飛ばし、あちこちの避難所を探し回ったのだという。
母さんとの間でどういう話し合いが為されたのかは知らないけど、僕たちは札幌へ行くことになった。僕は別れを言うため桃香を探した。けど、彼女たちを見付けることは出来ず、彼女たちがどこへ行ったのかを知る術もなかった。
僕は、伯父さんが乗ってきたプリウスの後部座席に乗り込んだ。
もう少しだけ父さんを待っていたかったけど、それを口にすることは出来なかった。希望を口にするには、僕らはもう草臥れすぎていた。
「――すみません、綾瀬さん」僕は凍った海を見ながら言う。
「何が?」
「父さんのこと」
「ああ」
「僕の父さんは、この街にはいません」
彼女は問い返してこない。たぶん、僕の言わんとすることがわかっているのだ。だけどそれは〈本当のこと〉の全てではない。
僕はまた、綾瀬さんに嘘を吐いた。
父さんに会いに来たのは嘘だという嘘を。
スケート靴を抱く腕に力を込める。革の冷たさが、動物の亡骸を思わせる。
何もかも、氷付けになってしまった。
そして僕もまた、もうすぐその一部に加わるのだ。
*
本当は何も終わってはいない。
凍てついた海は、そう言っているようだった。
街を出て行った人々は故郷のことを考え続け、残った人々は氷と雪の世界で細々と暮らし続けていた。あたしたちがささやかな募金で己の心を満たし、何事もなかったかのように日常を送るそのすぐ傍では、五年経っても時間の針を進められずにいる人々が存在した。
だけど、何もすることが出来ない。何をすれば良いかもわからなかった。
無性に一穂を抱きしめたくなった。けどそれすら、結局は赤の他人が故の、安全な所にいる人間であるが故の、一時の感傷によるものでしかないと思えた。
あたしは、たった一人の少年を励ます言葉さえ持っていなかった。
「寒くなってきましたね」一穂が振り向いた。「戻りましょう。風邪を引いてしまいます」
月光を背中に受けるその姿は、なんだか別の世界から呼び掛けてきているようだった。まるで、この世ではない所にいるような。
「一つ、教えて欲しいんだけど」あたしは言った。「一穂はこの後、どうするつもりなの?」
答えは、すぐには返ってこなかった。何かを探しているような間が空いた。
「明日になったら、札幌に帰ります」彼は言った。
「そう」頷く他に出来ることはなかった。
一穂の家を後にして、ホテルまでの道を歩いた。
行きにあたしたちが歩いた足跡が、まだ残っていた。雪は、またチラチラと舞い始めていた。
あたしはまだ、往生際悪く一穂に掛ける言葉を探していた。このまま宿に着いて、床に入って電気を消したくなかった。
それっきり、一穂がいなくなってしまう気がしてならなかった。
市街地へ降りてきて幹線道路を歩いていると、黄色い回転灯を灯した大きな除雪車が雪煙を巻き上げながら通り過ぎた。
大きな唸りが行ってしまうと、煙の向こう、道路の反対側にスナックの看板が見えた。
その瞬間、腹を内側から蹴られた気がした。「やれ」と言われている気がした。
「ねえ」あたしは、前を歩く一穂に呼び掛けた。
薄暗い店内には、食堂と同じで客の姿はなかった。この街のこういう飲食店の経営がどのように成り立っているのか疑問が湧いたけど、考えるだけ大きなお世話な気もした。
「いらっしゃい」カウンターの席で頬杖を突いてテレビを観ていた中年の女が言った。
恐らく、というかほぼ確実に、この店のママだった。彼女は紫色(!)のルージュを塗った唇の両端を吊り上げた。
「あら珍しい。若いお客なんていつぶりかしら」
「カラオケ、歌いたいんですけど」
「どうぞ」
あたしは一穂を促し、店に入った。
「お酒? そっちの坊やは未成年だね」
「二人ともソフトドリンクで」
言い置いて、早速奥のカラオケマシンへ向かう。マイクを一本抜き取り、ソファーに座ろうとしていた一穂に差し出す。
「いや、僕は……」
「何でもいいから歌いな」
「でも、カラオケとか初めてで」一緒に行くような友達もいなかったのだという。
「じゃあ、先にあたしが歌うから、何にするか決めといて」
そう言って、電話帳みたいに分厚い歌本も押し付けた。あたしは自分の歌う歌をさっさと入力した。
こんなことでしか気持ちを伝えられないなんて、大人としてどうかとは思う。
けど何もしないよりは、手をこまねいて見送るよりはマシな気がした。マシだと信じていた。
やがてスピーカーから、耳に馴染んだイントロが流れ出した。
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