4-7
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五年前の六月六日、二十三時三十一分。七蘂町の沖合二十キロの地点で、海中を極秘裏に航行していた最新鋭潜水艦がエンジン故障を起こし、緊急浮上した。
潜水艦側からの救難信号は上下左右関係各所を巡り、即座に七蘂の町役場や漁協にも回ってきた。その末端として鳴ったのが、この数日前に買い変えたばかりの我が家のFAX付き電話機だった。
「沖で潜水艦が事故を起こしたらしい」
居間の電気がやたらと眩しかった。その光の中で、父さんが言っていたのを覚えている。僕が布団を抜け出した時、父さんは既に出かける準備を整えていた。
「乗員の救助に海保だけじゃ手が足りないからって、俺たちも船を出すことになった」
「大丈夫なのよね?」母さんが不安げに訊いた。
「大丈夫。ただのエンジントラブルだよ」父さんの声は笑みを湛えていた。
嫌でも不安を煽るサイレンが鳴り始めたのは、父さんが出て行って少ししてからだった。テレビでは緊急のニュースを流していたけど、父さんが言っていた以上のことはわからなかった。
サイレンの合間に、学校の運動会で聞くような防災無線の声が「海からなるべく離れるように」と繰り返し始めた。母さんは僕に着替えるよう言うと、最低限の荷物を纏め、着替え終わった僕に桃香たちを呼びに行かせた。
隣の家では既に桃香たちも起きていた。おじさんはやはり港へ向かったらしく、家には彼女と妹の梨理と子犬(たしか「ムク」という名前だった)しかいなかった。
桃香たちを連れて、母さんがエンジンを掛けていた車に乗り込んだ。
車は、真っ暗な道を走り出した。
暗い道路がどこまでも続いていた。
後ろの席では、隣の家の姉妹が抱き合う形で座っていた。二人の間からは、何が起きたか全く理解出来ていない白い子犬が顔を覗かせていた。いや、状況を理解出来ていないのは、皆同じだった。
「お母さんは?」梨理がぐずる。まだ幼稚園の年少だった。
「大丈夫。後で会えるから」そう答えるのは、僕の母さんだ。
ハンドルを握る母さんは、前を向いたまま「大丈夫、大丈夫」と、自分に言い聞かせるように呟いた。そんな母さんを見るのは初めてだった。
通りに出ると、前方に赤い光が並んでいた。僕たちの車も停まる。サイレンに混じって、いくつものクラクションも聞こえてくる。耳を塞ぎたくなるぐらいの、醜い合奏。窓のすぐ傍を、走って行く人が何人もいた。
「お母さん……」僕は運転席を見た。
「大丈夫よ、大丈夫……」ハンドルを持つ手が震えていた。
後ろの席で、梨理が泣き出した。桃香がそれを必死で宥める。けど、彼女の声だって震えていた。
窓の外を走り抜けていく人が多くなってきた。気付けば僕も、シートベルトの留め具に手を掛けていた。
前に停まっていた車から人が降りて、駆けていくのが見えた。
「みんな、車を降りて」母さんが言った。「走るわよ」
ドアを開けると、冷たい空気が顔に当たった。六月なのに、吐く息が白くなった。
「はぐれないように気を付けて!」幼馴染みの妹を抱えた母さんが言った。
僕たちは走り出した。サイレンとクラクションとヘッドライトだらけの、夜の道を。
夢中で走った。ゴールがどこだかわからなかったけど、とにかく脚を動かした。スケート教室の走り込みなんか比べものにならないぐらい辛かった。
父さん。
僕は胸の中で呼び掛けた。
父さん、僕は。
さっき頭に載せられた、掌の感触が蘇った。
「おい、あれ」誰かが言った。
僕は息を切らしていた。暗くて気付かなかったけど、坂道を上っていたのだ。
「海が……」
その言葉に、やって来た方を振り返る。
手前に、疎らな街の灯が見えた。
その向こう、真っ暗な部分はオホーツクの海が広がっていた。
僕は息を呑んだ。体は少しでも多くの酸素を欲している筈なのに、呼吸することを忘れてしまった。
水平線が蒼白く光っていた。
その輝きは網膜を突き破り、僕の脳裏に焼き付いた。
直後に吹き付けた、猛烈な冷気と共に――
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