4-6
*
しんとした夜道を歩く。
降っていた雪は止み、雲が途切れて月明かりさえ射し始めた。蒼白く染まる世界の中を、僕たちは白い息を吐きながら進んでいく。
道には足跡もなければ車のタイヤ痕もない。この辺りには、長らく誰も来ていないのだろう。
坂を上った先にある、人気のない住宅街でも同じ状況だった。公園のブランコは、昔はそれが動いていたのが信じられないほど、鎖が真っ直ぐに張っていた。それ以外の遊具は全て雪に覆われていた。月の光の下で見る公園は、どこか異世界めいて見えた。
遠くで、どしゃり、と音がする。屋根に積もった雪が落ちたらしい。
後ろで綾瀬さんが口を開いた。
「この辺りって、もしかして……」
僕は答えず、歩き続けた。目的の場所は、もうすぐだった。
その家は、まだ一応「家屋」として残っていた。雪で潰れているのではと思っていただけに、これはむしろ僥倖だ。
といって、廃墟であることに変わりはない。軒には牙のように氷柱が並び、月明かりを反射している。また、一部の屋根はやはり雪の重みに耐えきれず、部屋の壁ごと崩れている。門にはしっかりと黄色いテープが渡してあり、玄関の扉には文字は読めないけど大体何が書いてあるかはわかる赤い紙が貼り付けられていた。
記憶の中でまた一つ、七蘂に纏わることが書き換えられた。僕はもう開かれることのない玄関の扉を見つめたまま、立ち尽くす。
「中、入れるんじゃない?」綾瀬さんがヒョイとロープを跨いだ。
「危ないですよ!」
「だって、そのために来たんじゃないの?」
それはそうだけど。
「思い出の品とか、あるかもよ? お、鍵掛かってない」玄関は、彼女がノブを引いたらあっさり開いた。「入ってもいい?」
「どうして僕に訊くんですか」
「だってここ、一穂の家じゃん」
僕の家。
消えかかっていた認識が、再び形を帯びる。
「どうぞ」僕は言う。
「お邪魔します」
さっさと中に入っていく綾瀬さんを追うべく、僕も黄色のテープを乗り越えた。
*
言っちゃ悪いけど、そこは完全に廃墟だった。
雪は家の中にまで吹き込み、とても玄関で靴を脱げるような状況じゃなかった。気温は下手すると外より低く、業務用の冷凍庫にでも入ったような印象を受けた。
家具などが荒らされたように見えるのは、自然の力か。はたまた人の手か。或いは両方かもしれない。一穂の手前、そこへの言及は避けた。それに、あたしだって土足で人の思い出の場所に上がり込んでいるという点では、同じようなことをしていた。
パリパリに凍った暖簾を潜ると、居間と思しき空間があった。ソファーがあり、座卓が置いてある。壁の時計は十二時二十分を指して停まっていた。それがいつの十二時二十分なのか確かめる術はないけれど、例の潜水艦のエンジンがオホーツクの海上で爆発した時刻が丁度それぐらい時間だったと記憶している。
FAXの横に、写真立てが置かれていた。ガラスはすっかり雪に覆われていたけど、指で簡単に拭えた。
現れたのは、小さな一穂と、両親が映った写真だ。
お父さんが自撮りしたのだろう、家族三人で顔を寄せ合いレンズを覗いていた。
そこには、それまで見たこともない種類の笑顔を浮かべる一穂が映っていた。
あたしは写真立てを元の場所に伏せた。
廊下の突き当たりの部屋に、一穂の姿はあった。彼はベッドに腰掛け、部屋の中を見渡していた。
「ここが一穂の部屋?」
「そうです」
「へー。スケートやってたんだ」
一揃えのスケート靴が、棚の一角に飾ってあった。たぶん、競走ではなくフィギュアの物だ。
「三回転半とか出来るの?」
「それはさすがに」一穂は苦笑した。「でも、幼稚園の頃からずっとやってたんですよ。札幌に行ってからは全く滑ってないですけど」
ベッドから離れていた一穂が、腕を伸ばしてきてスケート靴を取った。彼は獲った兎でも眺めるような手つきで、しげしげと靴を眺めた。
「さっきの子、桃香っていうんですけど、同じスケート教室に通っていて。彼女の方が全然上手でした。僕は彼女の背中を追い掛けてるばかりで」
「あの子、親戚の人と暮らしてるみたいだったね」
「さっきの店にいたのは、桃香のお母さんの妹さんだと思います。五年前、避難所で桃香たちを迎えに来たのがあの人でした」一穂はスケート靴を抱えたまま、窓辺に立った。「あの事故の日、桃香のお母さんは海沿いの介護施設で夜勤だったんです。お父さんはうちの父と同じ漁師でした。それで海に向かって――」
それから先は、聞かなくてもわかった。
霞んだ月明かりの射し込む窓からは、海が一望出来た。海面は白い光を反射しているものの、水面に見られる筈の揺らめきがない。
動きを止めた海。
そう呼ぶに相応しい光景が、窓の向こうには広がっていた。
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