4-4
*
一穂はフラフラと歩き出した。
雪はいつの間にか粒を増していて、視界を遮るほどになっていた。それでも彼は、ゾンビみたいに来た道を引き返して行こうとした。
「一穂!」あたしは一穂の腕を掴んだ。
「離して下さい」振り解こうとしたのだろうけど、全然力が足りない。
「待ちなって」
「離して下さい。父さんが……」眼も声も虚ろだった。あたしにではなく、自分に言い聞かせているみたいだった。「来るんです……もうすぐ……バスターミナルに……」
そう言いながら、彼は雪に膝を突いた。倒れ込むのは、あたしがどうにか阻止した。
着信したメッセージには、予想通りのことが書かれていた。あたしは目を細め、『了解』とだけ打った。初めての「返信に対する返信」だった。それからすぐに返ってきた『あの子をどうかよろしくお願いします』には、やっぱり返事をしなかったけど。
「お腹空かない? 何か食べに行こうよ」テレビでNHKの七時のニュースが始まったのを見計らって、あたしは一穂に言った。「ここ、素泊まりだから食事出ないよ」
彼は部屋の隅で、膝に顔を埋めていた。
街で唯一営業している宿泊施設が、このホテルだった。新しくはないけれど、取り立てて古いわけでもなく、ロビーなんかは意外なほど(と言っては失礼だけど)ちゃんとしていた。冬には除雪の作業員がよく利用するらしいけど、この時は雪の量がそれほど多くない夏場だったので空室に入ることが出来たのだ。尤も、オフシーズンが故にホテルのレストランも閉まっていた。
部屋は、畳敷きの二人用。入るなり、一穂は板の間に陣取って膝を抱え出した。そのまま七時を過ぎるまでの小一時間、同じ姿勢を続けていたのだ。
まあ、気持ちがわからないわけでもない。久しぶりに会った地元の友達に、いきなりあんな顔をされたら、誰だって膝ぐらい抱える。ましてや一穂の場合は事情が事情だ。その分、ショックだって大きいのだろう。
返事がないのにもめげず、あたしは声を掛け続けた。そろそろ本格的に腹が減ってきた。
「あ、それとも買ってこようか。通りにセコマあったよね?」
答えはなかった。
あたしは待った。
辛抱強く。
堪えろ、と自分に言い聞かせながら。
お腹の虫が鳴くのも聞かなかったことにして。
ニュースが北海道だけのものになったところで限界が来た。
「食べなきゃ駄目だよ」あたしは改めて言った。
ようやく、くぐもった声が返ってきた。けどそれは、あたしの欲しい返事じゃなかった。
「綾瀬さん、お一人でどうぞ」
「一緒に行くんだよ」彼から目を離しちゃ駄目なことは明白だった。
「行きたくありません」
「お腹空かないの?」
「空きません。何も食べたくありません。こんな時に」
「こんな時だから、だよ」待っていても埒が空かないので、あたしは立ち上がった。「こんな寒い所でお腹空かしてたら、冗談抜きで死んじゃうよ」
そして、彼の腕を掴んで引っ張った。
抵抗するかと思いきや、一穂の体は軽かった。
「死ぬ……」顔を上げた彼は、呟いた。
*
綾瀬さんに連れられるまま、雪の中を歩く。
ホテルを出ると、大粒の雪が音もなく降っていた。元々七蘂は夏場に雨の多い土地なので、雪が多いのも頷ける。本来「雨」として降る筈の分が、自然の摂理に反する冷気によって雪となって地上に落ちるのだ。
僕たちは互いにコートに着いているフードを被り、歩き出した。巡礼者にでもなったような気分だった。
綾瀬さんが見たというセイコーマートはなかなか見つからず、途中で『喫茶・定食』の文字が躍る電光掲示板が目に付いた。橙色のダイオードが文字や簡単なイラストを表示するもので、丼やコーヒーカップの絵も現れた。どの絵も漏れなく湯気が立っていた。
「ここにしよう」言うが早いか、綾瀬さんはザクザクと雪を掻き分けながら店の方へ向かっていった。
扉が開くと頭上でカウベルが鳴った。
奥からおばさんというにはまだ若い女性が出てきて、僕らをテーブル席へ案内した。
「お客さんたち、見ない顔ね。外から来たの?」運んできたお茶とおしぼりを置きながら女性が言った。
「札幌から来たんです」綾瀬さんが答える。
「そう、遠くからわざわざ――でも、この辺は何もないわよ? 知床や根室の方へ行った方が面白いんじゃないかしら」
「いやー、そんなことないですよ。テレビで観てただけじゃわからないことがいっぱいあるっていうか。あ、オススメの料理ってあります?」
二人の会話を聞きながら、僕は店の中を見回す。
他に客の姿はない。極彩色のバラエティを映したテレビの音だけが響いている。お品書きの貼られた壁には『がんばろう七蘂』と書かれたポスターが貼ってある。壁紙やテーブルに古さを感じない。建物自体も新しいようだ。たぶん、事故の後に建てられたのだろう。
「一穂は?」
呼び掛けられ、前を向く。
「注文、何にする? あたしは鍋焼きうどんにするけど」
「あ、僕はいいです」
「ダメ。千キロカロリー以上の物を頼みな」
千キロカロリーって結構あるけど。
「あら?」クスクスと笑っていた店の女性が、僕を見て言った。
僕も改めて彼女を見て、或ることに気が付いた。
この人、誰かに似ている。
「あなた……もしかして、佐久さんのところの息子さんじゃない?」
あ、と思う。この人と会うのは、今日が初めてじゃない。
「そうよね、一穂君。覚えてないかしら。五年前、根室の避難所で会った――」
「叔母さん」
聞き覚えのある声が、僕の心臓を掴んだ。
「お風呂、またお湯出なくなったって。
言葉が途切れた。声のする方へ顔を向けると果たして、彼女が立っていた。彼女の方でも僕を捉えていた。
「ちょっと桃香――ごめんなさいね。お客さんの前で。ああ、でも一穂君は桃香と……」
「まだいたんだ」女性の声を貫くようにして、桃香の声が飛んでくる。「さっきわたしが言ったこと聞いてなかった? しかもこんな所にまで来て。何、あてつけのつもり?」
「桃香、何言ってるの? せっかくお友達が――」
「友達じゃない!」桃香は叫ぶと、裸足のまま店に降りてきて、僕の傍らに立った。「さっさと出て行きなよ、あの時みたいにさ。それでずっと、もう関係ないみたいなふりして余所で暮らしていけばいいじゃん」
気付けば僕はまた、俯いている。
「あんたは逃げたんだ。七蘂を、わたしたちを捨てて、遠くで一人だけ平和に暮らしてきたんだ。わたしたちがどんな気持ちでここで暮らしてるかも知らないで」
笑い声が聞こえる。テレビの音だ。
「……僕だって」膝に置いた拳を握る。喉から声を絞り出す。「僕だって、ずっと帰ってきたかった……」
泪だけは流すまい。だけど、踏ん張る分だけ、喉が不自然に震える。
「七蘂のことも、みんなのことも、忘れたことなんて一度もなかった……いつだって、この街に帰ってきたいと思ってた……」
「嘘だ」桃香が斧を振り下ろすように言う。
「嘘じゃない」僕は抗弁する。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘だ!」
「嘘じゃないよ……」
「あのさ」そう割り込んできたのは、僕の向かいで腕組みしている綾瀬さんだった。
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