4-3
格好良くなくてもいいから、ダサくない大人になりたいと常々思っている。そんな願いを、愛車が見事に粉砕してくれた。
「マジで、ホントに、誠に申し訳ない」
「いえ、昨日もやりましたし、コツは掴んでます」
あたしたちは小雪舞い夕闇迫る街の中を、文字通り「鉄の塊」と化したハンプティ・ダンプティを二人で押していた。
「そうか……あれってまだ、昨日のことだったんだっけ……遠い昔みたいに思える」
態勢は前日と同じ。あたしが運転席の窓からハンドルを掴み、一穂が後ろから押している。地元の修理業者に電話をしたところ、迎えに行こうにもトラックがないとのことで、こうして押していく羽目になったのだ。この時は、引っ張ってくれる奇特な運転手も通り掛からなかった。というより、車がいなかった。
三十分ほどの道のりだった。やっとの思いで修理工場にハンプティを押し込むと、早速主人が診てくれた。
主人の話では、エンジンは壊れたわけではなく、寒さに負けて停まったとのことだった。北国を走る車にあるまじき醜態だと初めは憤ったけど、老体に鞭を打つように走っていたのは明らかにあたしの責任だ。そんな過労を課した上、更に気温の急落に晒したのだから、停まるなという方が無茶な話に思えてきた。幸い、一晩温めれば動くようになるとのことなので、任せることにした。
「というわけで、今晩はここに宿泊することが決まりました」
「そうですか」律儀に待ってくれていた一穂が言った。
日は完全に沈み、街灯が灯っていた。
「てか一穂、待ち合わせの時間は?」
「父も少し遅れるそうなので大丈夫です」
「そっか。ほんとにありがとね」
「僕の方こそ。短い間でしたけど、お世話になりました」
一礼して、彼は立ち去ろうとした。その背中に、あたしは声を掛けた。
「あのさ」
一穂が振り返る。
「あたしも行っていい? 一穂のお父さんにも会って御礼が言いたい。うちの仕事、手伝ってもらったりもしたしさ」
はっきりとした戸惑いの色が、彼の顔には浮かんだ。
「あ、迷惑ならやめとくけど」
「いや……」
その時、雪を踏みしめる音がした。
かと思えば、一穂の向こうで立ち止まる影があった。
「一穂?」
女、というより、女の子の声だった。
丁度、一穂と同じぐらいの年頃の。
*
空耳かと思った。
けど、それはたしかに聞こえた声だった。
自動車工場の屋根から投げられる橙色の明かりの中に、彼女が夕闇から浮かび上がってきた。
「
会うのは五年ぶりだ。あの事故の後、彼女たち姉妹は叔母さんの家に引き取られ、僕と母さんは札幌へ行くこととなった。いつかまた会えるだろうと気軽に考えていたら、いつの間にか五年も経っていた。
桃香は昔からしっかりした子で、気が強かった。同い年なのに叱られることはしょっちゅうで、背も彼女の方が高いのせいか、僕らはなんとなく姉弟のような関係だった。
今、正面に立つ桃香の目線は僕と同じぐらい。僕はそれほど小さい方でもないので、彼女はやはり、女子としては長身の部類に入るのだろう。けれど目線が並んだからといって、昔より堂々としていられるわけでもない。癖というのを体は意外なほど覚えているもので、自然と背中が丸くなる。
嫌な気持ちはしない。
よかった。
彼女も無事に、僕と同じ分の時間を過ごしていた。
そんな気持ちが胸の奥から溢れ出てきた。胸の内側に温かいものが広がり、僕は思わず顔を綻ばせた。
だけど。
「何でここにいるの?」桃香は言った。両の眼に、冷たい光を灯しながら。
何を言われたのか、すぐには理解出来ない。やがて少しずつ、言葉が鼓膜に染み込んできた。
「え?」我ながら間抜けな声。けど、出そうと思って出したんじゃない。喉が引き攣って、意図しない音が漏れたのだ。
そんな事情も、相手にはもちろん通じない。
桃香の顔に、今度ははっきりと怒りが浮かぶ。
「今更何しに来たの? あんた、もうこの街に用ないじゃん」
僕は言葉を挟もうとするけど、言うべきことが見つからない。
「家だって壊れちゃったし、学校だってなくなった。あんたの知ってる人なんて、みんな死んだか、どっか行っちゃったよ」
頭を鈍器で殴られたような気がした。だけど精神が受けたダメージとしては殆どそれと同等で、僕はその場に崩れ落ちそうになる。
気付けば足下ばかり見ていた。顔を上げる。目の前に桃香がいる筈だけど、焦点が定まらない。
「さっさと帰れ、余所者」彼女は唸るように言った。そして僕の脇を通り抜けていった。
雪を踏む音が遠ざかっていく。
あっと言う間のことだった。彼女が残していった足跡がなければ、今の出来事が夢だったのではと思ってしまいそうだ。
いや、夢だったらどんなに良かっただろう。
視界が大きく揺れる。
足からフッと力が抜けた。
雪に埋もれずに済んだのは、駆け寄ってきた綾瀬さんが支えてくれたからだ。
「ちょっ……大丈夫?」
「大丈夫です」そう答えるしかない。
僕は身をよじり、綾瀬さんから離れる。今は、誰にも触れられたくない。気に掛けてほしくない。
頭の中ではまだ、さっき桃香に言われた言葉が反響している。
さっさと帰れ、余所者。
余所者。
そうだ。
今の僕は、七蘂にとっては余所者なのだ。たとえここが生まれ故郷であろうと、幼馴染みが住んでいようと、僕はこの街を離れ、別の場所で生きてきたのだから。
僕はこの街を捨てたのだから。
当然だ、あんなことを言われるのは。
別に傷付くようなことじゃない。ちょっと考えればわかるじゃないか。僕が彼女に歓迎される筈はない。そんな資格、どこにもない。
わかっているのに。
なのに何で、こんな気持ちになるのだろう?
僕にはもう誰の優しさも必要ない筈なのに、どうして哀しいなんて思うのだろう?
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