4-1

   *


 車は十勝平野を突っ切って、再び山間へ入る。

 途中、道の駅で遅めの昼食をとった。おばさんが作ってくれたお弁当は美味しくて、何より、綾瀬さんがそれを美味しそうに食べる姿が見られたのが嬉しかった(「何?」と怪訝そうな顔をされたけど)。

「この分だと、夕方には七蘂ななしべに着けるね」スマホに指を走らせながら、綾瀬さんは言った。

 旅の終わりが近付いている。

 目的地に着くのは喜ばしいことである筈なのに、考えると体の奥底が凍り付いたように固くなる。小刻みに震え出す手を、僕はもう片方の手で押さえ付ける。

「運転、大丈夫ですか? あまり無理はしないで下さいね」

「大丈夫大丈夫。今日の内に行っちゃおう。一穂だって、早くお父さんに会いたいでしょ?」

 僕は黙って頷いた。

 阿寒湖あかんこを過ぎた辺りから、肌寒さを感じるようになった。更に山道を進んでいくと、明確に上着が欲しくなってきた。

 窓越しに見上げる曇り空には、白い物が舞い始めた。生まれて初めて見る、八月の雪だ。

 給油中に入ったコンビニで、僕らは温かい飲み物とカイロを買った。綾瀬さんは後ろの席に積んだ荷物から冬用の上着を取り出した。僕もリュックに入れておいた折り畳み式のダウンジャケットを羽織った。

「噂には聞いてたけど、こんなに寒いとはね」そう言った綾瀬さんの吐く息は、微かに白かった。彼女は僕の姿を、上から下まで見渡した。「そんな軽装で大丈夫? これからもっと冷えてくるんでしょ?」

「平気ですよ。これ、結構温かいですし」

「首元冷やすと風邪引くよ」

 言いながら、綾瀬さんは後部座席の衣類の山(実家を出る時に手当たり次第に積み込んだらしい)から赤いニットのマフラーを引き抜いた。ワインレッドといった控えめな赤ではなく、鮮烈な真紅だ。自分では決して選ばない色合いだ。

「ちょっと派手だけど、我慢して」

 僕は無理矢理マフラーを巻き付けられた。

「いいじゃん、カッコいいよ。仮面ライダーみたい」

「昔の、ですよね?」

 マフラーからは防虫剤のにおいが漂ってくる。それは何となく、綾瀬さんの家のにおいに似ていた。

 あの家の布団にいたのが、もう遠い過去のことのように感じられた。


   *


 舞う程度だった雪は勢いを増していき、道道に入る頃にはワイパーを使わなければならないほどになった。

 道路を跨ぐ電光表示には『路面凍結注意』の文字が光っていた。たしかに足下では、タイヤがみぞれ雪を撥ね飛ばす音が聞こえていた。不精を発揮してスタットレスを履き替えずにいたのが、思わぬ形で役に立った。

 それにしても、寒い。

 冷房もなければ暖房もない我が愛車の中は、体感温度的には外より五度は低い筈だった。上着にマフラーはもちろんのこと、手袋だって常時着用していなければ危険で、現にあたしは革手袋の上にイボ付き軍手を填めてハンドルを握っていた。

 一穂は段々と口数が少なくなっていった。故郷が近付き、緊張する気持ちはあたしにもよくわかった。ただ決定的に違うのは、彼の場合は已むなくそこを離れたという点だ。

「寝たら死ぬぞー」

 マフラーに口元を埋めている一穂に声を掛けた。実際、朝から牧場仕事なんか手伝わされて疲れていたのか、彼はハッとしたように顔を上げた。

「そろそろ七蘂に入るよ。お父さんに連絡しといた方がいいんじゃない?」

「そうですね……そうします」

 すると一穂は手袋を外し、ポケットから取り出したスマホに文章を打ち始めた。

 やがて、『ようこそ ななしべ』と書かれた氷の張った看板が、窓の外を通り過ぎた。

 陽は大分落ちていた。日没まではまだ時間がある筈だったけど、天気のせいなのか、辺りには「夜」が顔を覗かせ始めていた。

 あたしはハンドルを握ったまま言った。

「街中に着いたら道案内よろしくね。お父さんからは返信あった?」

「あ、はい」一穂は言った。「『帰りに迎えに行くからバスターミナルで待ってるように』って」

「そっか」あたしは鼻を啜った。「お父さん、忙しいんだね。日曜も仕事なんて」

 返事はなかった。

「何してる人なの?」

 少し間を置いてから、一穂は言った。

「海で働いてます」

「ということは、警察か海上保安庁? あ、もしかして自衛隊?」

「そんなところです」

 そんなところ、とあたしは胸の内側で繰り返した。

 車は坂を下っていた。

 丁度、雲の切れ間に差し掛かったのか、雪が止んだ。霞んでいた視界が晴れ、夕闇に沈みつつある街並みがボンネットの向こうに見渡せた。

 頭の中から一切の言葉が消えた。

 あたしはアクセルを踏んだまま、呆然としてしまった。もう少し交通量が多かったら、事故でも起こしていたかもしれない。

 街は文字通り、何もかもが氷に覆われていた。

 いやむしろ、氷で街を作った、と言われても違和感はなかった。少なくともあたしは、何も知らずにこの光景を見せられた時、正しい答えを選べる自信がなかった。

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