3-10
*
みんなが牧場に行ってる間に出て行こうとしていたのに、起きたら九時を回っていた。
あたしは小さく舌打ちしながら支度を調え、一穂が寝ている客間へ向かった。けどそこに、彼の姿はなかった。
「あら、あんた起きたの」後ろから母さんの声がした。「丁度よかった。片付かないからご飯食べちゃって頂戴」
「いらない。もう出るし」
「そんな急いでるわけでもないんでしょ? 一穂ちゃんも食べてるわよ」
「はあ?」
居間へ行くと果たして、一穂が朝食を突いていた。あたしに気が付くと、彼は何か一仕事終えたような清々しさを漂わせながら「おはようございます」と言った。
「すごく美味しいです、綾瀬さんちの朝ご飯」
「一穂ちゃん、うちの仕事手伝ってくれたんだよ。お姉とは大違い」
向かいには美月が座っていた。ということは、と見るまでもなく、上座には父の姿があった。
「ほら、あんたも座りなさい」
母さんに押されるようにして、あたしは一穂の隣――というより、父の斜め前に座った。そこがあたしの定位置だった。
父は黙って新聞を広げていた。あたしを視界に入れないようにしているようにも見えた。
「いっそ、うちで働いてくれないかなー。ていうか、婿に来ちゃえば?」
まだ一穂があたしの彼氏だと思い込んでいるのか、美月は聞こえよがしにそんなことを言った。睨みつけるけど、傍が傍だけにいまいち気持ちが定まらない。
母さんがあたしの前にごはんと味噌汁を置いた。
「お父さんも、いい加減食べちゃってください。お味噌汁、温め直す?」
言われた父は首を振り、不承不承といった感じで新聞を畳んだ。
自分の分も持ってきていた母さんがあたしの向かいに座って、手を合わせた。
「はい、いただきます」
「いただきます……」あたしも言って、箸を取った。
味噌汁を啜っていると、視線を感じた。美月が笑みを含んだ眼をこちらに向けていた。
「何?」
「んー、別にー」
何でもないようではなかった。
「何だよ」
「いや、同じだなーと思って。お姉とお父がお味噌汁飲むタイミングが」
横を見ると、父は味噌汁椀を手にしたまま口を開けていた。たぶん、あたしも同じような顔をしていたのだろう。
食卓が、あたしと父を除く三人の笑い声で満たされた。
「はい、これ」
玄関の玄関の前で母さんは、スーパーのビニール袋を差し出してきた。中には丸いアルミホイルの包みと、まだ温かさの残るタッパーが入っていた。
「途中でお腹空いたら食べなさい」
あたしは口の中で小さく礼を述べた。
「帰りにまた寄れないの?」
「どうだろ。わかんない」
「まあ、とにかく気を付けて行きなさいね」それから母さんは家の中へ振り、「お父さん、綾瀬、そろそろ行くって」
「呼ばなくていいから!」
あたしが止めるまでもなく、父は姿を現さなかった。朝食の時だって、結局一言も口を利かなかった。食事を済ませたら、さっさと席を立っていった。まあ、同じ卓に着いて食事をすること自体が、奇跡みたいなものだったのだろう。あたしはそんな風に考えた。
「一穂ちゃん、また来てね」隣では美月が一穂の手を取っている。「お姉の婿がイヤだったら、わたしのでもいいんだよ」
「いや、その……」肩を竦ませた少年は、耳まで真っ赤になっていた。
「朝は早いし休みはないけど、牛乳飲み放題だよ。だから、ね?」
「『ね?』じゃねーよ」あたしは妹の頭に手刀を食らわせた。
「それにしてもあんた」母さんはハンプティをまじまじと眺めながら言った。「もっとちゃんとした車買えないの? ボロボロじゃないの、これ」
「そういうところが味なんだよ」
「味もいいけど、ちょっと小さいんじゃない? これじゃあ、ずっと運転してたら身体に負担が掛かるわよ」
「大丈夫だよ」軽く受け流し、あたしは助手席のドアから後ろの席にビニール袋を置いた。それから遅れて、母さんの言葉の本当の意味に気が付いた。
いや、まさか。
そんな思いで顔を戻すと、母さんは微笑みながらあたしの腕をポンポン叩いてきた。何もかもお見通しだ、とでも言うように。
「ちゃんと食べなきゃ駄目よ?」
一穂が約束を破ったとは思えない。ボビーが告げ口をする筈もない。じゃあ、誰が? 知る術は何もなかった。
「今度、お父さんにもちゃんと話しなさいね」
母さんは言った。あたしはぎこちなく頷いた。
車に乗り込む際、ガムテープで固定していたサイドミラーがきちんと溶接されていることに気が付いた。まさか、ハンプティが自己再生したわけでもあるまい。そういえばうちの物置には、溶接の道具もしまってあった。
エンジンは一発で掛かった。母さんと美月に別れを告げ、あたしは愛車を発進させた。
砂埃を巻き上げながら、でこぼこ道を進んでいく。思えばこの道を、ハンプティ・ダンプティで走るのだって不思議な感じがする。こんな日がいつか来るなんて、思いもしなかった。
「綾瀬さん」助手席で一穂が言った。
見ると、彼はレバーを回し、窓を下ろしていた。
その向こうに、牧草を刈るトラクターが見えた。運転席に座る人影は、キャップを目深に被っていた。
「ありがとうございました!」一穂がトラクターに向けて手を振った。
運転席の人物は、キャップの鍔を摘まんで軽く会釈した。目が合った気がして、あたしは慌てて前を向いた。
「ほら、行くよ」あたしは手を振り続ける一穂に言った。
やがて車は舗装された国道に出る。『森川牧場』と書かれた看板が、サイドミラーの中で小さくなっていった。
「一穂」あたしはハンドルを握ったまま言った。「ありがとね」
「僕の方こそ」助手席からは、そんな返事があった。
「何それ」思わず笑ってしまった。
「何でしょうね」一穂も笑った。
道沿いの木々が途切れ、すっかり高くなった陽が射し込んできた。一瞬、眩しさに顔をしかめたけど、日射し除けを掛ける気にはならなかった。
もう少しだけ、陽の光を浴びていたかった。
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