3-9

 長いでこぼこ道を抜けると、アスファルトの車道に出た。

 空は明るくなり始めていて、フロントガラスの向こうの何もかもが青みがかって見える。

 森の中の一本道を車は進んでいく。他に走る車はない。

 やっぱり、というべきか、綾瀬さんのお父さんは何も喋らない。小さく絞ったラジオの音だけが、僕たちの間にはある。僕はそれを聞き取ろうと耳を澄ませた。聖書の話をしているようだった。

 ハンドルを握る綾瀬さんのお父さんが、つなぎの胸ポケットから煙草の箱を取り出しかけて止めた。たぶん、僕がいることを途中で思い出したのだ。

「あ、どうぞ。僕なら大丈夫です」

「いえ……」

 再び沈黙が降りてきた。

 だけど今度のは、そう長くは続かなかった。

「綾瀬は――」

 不意に出てきた名前に、僕は運転席を向く。

 そこには見慣れた横顔があった。というのも当然だ。僕はこの二日、血の繋がった父娘の横顔を、同じ角度で見てきたのだから。

 咳払いして、綾瀬さんのお父さんは続ける。

「綾瀬は、札幌で上手くやっとりますでしょうか」

 口調が不自然なのは、こういう喋り方に慣れていないせいだろう。この人は、遙かに年下で余所者の僕のために緊張しているのだ。僕もちゃんと、向き合わなければ失礼だ。

「は、はい。いつも優しくしていただいております」

「そうですか」

 ピンと張っていた何かが、少しだけ緩んだ気がした。

「育て方が悪く、わがままなやつですが、どうかこれからもよろしくお願いします」

「そ、そんな。僕は綾――森川先生に助けていただいてばかりで」

 本当にそうだ。

 昨日も現れた考えが、頭をもたげる。僕は綾瀬さんに助けてもらってばかりいる。

 何かしなければ。

 あの人のために、僕に出来ること。

 それはもう目の前にある。今がそれを実行する時だ。

「森川先生は、いつも後悔していました」僕は嘘をついた。でも、嘘つきになることぐらい何でもない。これぐらいはしなければ。「――家出同然で出てきてしまったことを。本当はいつだって、ご実家に帰りたかったんだと思います」

「……」

「この旅に出る前、僕は家でも学校でも上手くいっていなくて。それで森川先生に相談したんです。本当は家出する気持ちも固めてて、唯一心を許せた先生にだけ告げていなくなるつもりでした」全くの作り話なのに、何故だろう、話していると本当にあったことのように思えてくる。「先生は、ご自分のことを教えてくれました。ご実家には何回も連絡しようとしたそうです。けど、何を話せばいいかわからないって……本当にすごく、悪いことをしたと思ってるんです。ご両親のことが本当に大切だから、どうしたらいいのかわからないんです」

 ふと、母さんの顔が頭に浮かんだ。

 僕は母さんに何も言えなかった。何を言ったらいいかもわからなかった。だから、黙って家を飛び出した。

 同じだ。

 僕が綾瀬さんにしてほしいことは、そのまま僕がしたいことなんだ。


 冷たい風が、右の頬に当たる。運転席側の窓が開いていた。

 カチ、とプラスチックの弾けるような音がした。かと思うと、おじさんが息を吐くのが聞こえた。煙草のにおいがわずかに漂ってくる。

「あなたは大変聡い方です」おじさんは言った。「そんな人に、あれが物を教えるなんて、俄に信じがたい」

 心臓を一突きされたような心持ちがする。顔に出ないよう、身体中に力を入れた。

「けど……少しは立派になったんですなあ。あなたのような人にそんな風に慕ってもらえるなんて」

 僕は深く頷く。言ったことに嘘は混じっているけど、伝えたい気持ちに偽りはなかった。

 やがておじさんの向こうで、景色が輝き出した。

 目が眩む。

 初め真っ白だった光は、地平線を離れるごとに橙色を帯びてくる。

 小さい頃、七蘂の海で見た初日の出を思い出した。

 そうだ。激しい船酔いの記憶は、あの時のものだ。父さんの船の上で、僕は雑巾みたいに草臥れていた。

 だけど、日の出の瞬間だけは、全ての苦しみが忘れられた。口の中の酸っぱさもお腹の底の気持ち悪さも狂った平衡感覚も、何もかもが消え失せた。僕は船に縁に掴まって、水平線から昇ってくる太陽にただただ見惚れていたのだ。

「あれが中学生の時、家出をしたことがありました」逆光で影になったおじさんが言った。「夜中に出たんでしょうが、街までは大人の足でもだいぶある。その時もたまたま、こうして運転する用事がありましてね。車で走っていたら、その辺をあれが歩いてたんですよ」

 僕は寂しい一本道をとぼとぼ歩く少女の背中を想像する。

「横に車を駐めてやったら、あれは黙って乗り込んできました」

 親子ともに何も言わない車中。綾瀬さんは、僕が今座っている席にいたのかもしれない。

「時間も、こんなような時間でした。日の出を見ると、今でもたまに思い出します。あれの人騒がせは、昔から何も変わらない」おじさんは、据え付けの灰皿に吸い殻をねじ込んだ。「私らにとっては、昔から何も変わらんのです」

 綾瀬さんに似たその横顔は、どこか嬉しそうに見えた。

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