3-8
*
目が覚めた時、カーテンの向こうはまだ暗かった。
家の人は既に起き出しているらしく、くぐもった話し声や物音が聞こえる。さすが、牧場の朝は早い。
元々の眠りが浅かったせいで、再び寝入るのは無理そうだ。僕は布団を抜け、借りていた寝間着から自分の服に着替えて部屋を出た。玄関へ行くと、つなぎ姿の美月さんが靴を履いているところだった。
「綾瀬はまだ寝てるのか」
「起きるわけないっしょ。うちにいた時から寝坊ばっかりだったんだから」
誰かと話している。考えずとも、相手が誰かはわかる。足が停まる。けど、臆病風が吹くのが遅かった。
「あ、一穂ちゃん。早いねー」
気付かれて、逃げも隠れも出来なくなった。僕は曖昧に挨拶を述べる。
美月さんの向こうには、がっしりとした体つきの、こちらもつなぎ姿の男の人が立っている。綾瀬さんのお父さんだ。キャップを目深に被っているため、表情は覗えない。ただ、真一文字に結んだ口だけが見える。
綾瀬さんのお父さんが軽く顎を引いたので、僕は頭を下げた。だけど、ここに来たのは何も挨拶をするためだけではない。僕は出て行こうとする二人に向けて言った。
「あ、あの!」
二人が振り向く。
喉が音を立てて閉まる。何が僕をここまで緊張させるといって、やはりキャップの影から向けられているであろう鋭い眼光だ。
「ぼ、僕にも何かお手伝いさせて下さい!」
上手く言えた、という達成感は程なくして粉となって消えた。後には時が止まったような沈黙が降ってきた。
僕は決して短くはない間、呆気にとられた二人と見つめ合っていた。
木とポリエチレンで出来ている筈のスコップが、いつの間にか全て鉄製に変わったみたいだ。
息が上がり、鼻の頭から汗が滴る。タオルで顔を拭っても、汗は次から次へと吹き出してくる。タオルはもう、じっとりと濡れている。
「無理しないでいいよー」牛が美月さんの声で言う――じゃなくて、美月さんが牛の向こうで搾乳しているのだ。
「大丈夫です」僕は返す。
「全然大丈夫そうに聞こえないよー」美月さんが笑う。
全く情けない。掃除もろくに出来ないなんて。
初めは牛を愛でる余裕があった。七蘂ではよく街にエゾシカが出ていたけど、札幌に行ってからは犬猫ぐらいしか動物に接する機会がなかったから、間近で見る牛はなかなか新鮮だった。
だけど普段使っていない筋肉は、餌やりを半分も済ませないうちに悲鳴を上げ始めた。美月さんたちが搾乳をする間に牛舎の掃除を頼まれたのだけど、綺麗にするどころか、スコップを上手く支えられずに却って散らかしているような有様だった。
「でも、君はガッツあるよ。昔バイトに来た大学生で、一日目のこれの途中でいなくなっちゃった人もいたから」
「これを毎日なんて……美月さんすごいですね……」
「生まれた時から牧場にいるからね。この子たちと同じ。お姉はずっとイヤだったみたいだけど」
牛に餌をやったり、乳を搾る綾瀬さんを想像するけど、上手くいかない。そもそもつなぎ姿がしっくりこない。
「わたしには好き好んで都会の人混みに紛れるお姉の気持ちがわからないけどさ、お姉もその逆のことを思ってるんだろうね」
昨日聞いた、綾瀬さんの声が蘇る。
――家飛び出したからには、やっぱり親を頼るわけにはいかない。
「十何年も毎日ずっと顔を合わせてきたけど、わかんないことってあるね」美月さんは言った。寂しそうな声だった。
足音に振り向くと、綾瀬さんのお父さんが立っていた。
「少し、いいですか」
低い声で発せられた敬語は、僕を何重にも緊張させた。
言われるままについていくと、一台の軽トラックが停まっていた。その傍らには、発電機のような機械が置かれている。
「すみませんが、そっちの端を持ってもらえますか」
「は、はい」僕はおじさんとは逆の側につく。
「荷台へ載せます」
「はい」
そして二人で持ち上げた。さっきまでスコップすらまともに持てなかったのに、落とすことなく、機械を荷台へ載せることが出来た。火事場の馬鹿力というやつだろうか。綾瀬さんのお父さんは、キャップの鍔を摘まんで小さく顎を引いた。「どうも」という意味らしい。
「これを知り合いの牧場まで届けることになりました」彼は言った。「……すみませんが、一緒に来て貰えませんか」
「も、もちろんです」僕は頷き、軽トラックの助手席に乗り込んだ。「こちらの仕事は大丈夫なんですか?」
「家内もおりますので」
車は出発する。
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