3-7

   *


 布団に戻ってから結構な時間が経った気がする。けれど眠りは一向にやって来ない。

 真っ暗な天井を見上げながら、僕は綾瀬さんの言葉を反芻する。

 自分の都合だという綾瀬さんの気持ちはわかる。家族だからって何でも話せるわけじゃない。僕だって同じことを経験している。だからこそ、今ここにいるのだ。

 だけど。

 何故だろう、綾瀬さんの言葉に、百パーセント賛同出来ないのは。彼女の気持ちはわかるのに、何かが僕とは決定的にずれている気がする。

 ふと、夕食の場に綾瀬さんのお父さんがいなかったことを思い出す(綾瀬さんもいなかったけど)。

 牧場の仕事をしているのだとおばさんは言っていた。

 ――殴り合いになったりして。

 苦笑する綾瀬さんが蘇る。お父さんの顔はまだ一度も見ていないけれど、低い声と灰皿に押し付けられた吸い殻からは、怖そうなイメージしか漂ってこない。

 或る考えが頭の底から浮かび上がって来て、泡のように弾けて消えた。

 馬鹿な考えだ。きっと大きなお世話に違いない。

 瞼を閉じたまま自嘲する。だけど、僕に出来ることといえばそれぐらいしか見当たらない。自分の無力さを痛感しながら、いつしか僕は眠りの中へと落ちていた。


   *


 LINEで送った写真にはすぐに『既読』が付いた。メッセージが届いたけど、返事をせずに画面を消した。それが己に課したルールだった。あたしは短く溜息を吐き、スマホを湯船の縁に置いた。

 磨り硝子の向こうで電気が点いた。服を脱ぐ人影があった。さっさと裸になったその影は、カラリと戸を開けた。

「お姉、一緒に入っていい?」

「駄目。あたしが上がるまで外で待ってて」

 そんなこちらの言葉も聞かず、美月はシャワーで体を軽く洗うと、湯船に入ってきた。昔は住み込みで働く人がいたらしいから、今更女が一人増えたところで湯が溢れ出すほど小さな湯船じゃないけど、念のためスマホを持ち上げた。

「うわ、風呂でスマホって。ドラマの中だけかと思ってた」

「いや普通にやるだろ。ってか、こんな時間まで起きてていいわけ? 明日も早いんじゃないの?」

「今日の実習のレポート書いてたら遅くなっちゃって」

「ふーん」あたしは湯気に隠れた天井を見上げた。

 ぽちゃん、とどこかで水滴が落ちた。

「あのさ、お姉」美月が口を開いた。

 来た。あたしはお湯のお湯の中で身構えた。

「札幌で何かあったの?」

「父さんに探り入れろって言われたの?」

「ちちちち違うよ!?」

「下手くそ」でもまあ、嘘なんて上手くたって仕方ない。

「これは、わたしが訊きたいだけだよ」美月は肩まで沈みながら口を尖らせて言った。「お母もお父もずっと心配してたんだよ? お姉がいなくなったってわかった直後なんて、お母、家の仕事ほったらかして帯広まで探しに行ったんだから」

 あたしは黙って天井を見上げていた。

「お父だって口では『ほっとけ』とか言いながら結構探し回ってたみたいだよ。前に一回、『フェイスブックって何だ?』ってわたしに訊いてきたし」

 父とフェイスブック。この取り合わせはもはやシュールレアリズムだ。

「だから、お姉もお姉で不満はあるかもだけどさ、一回二人とちゃんと話してあげてくれないかな?」

「向こうがお呼びじゃないもん。特に父さんは」

「イヤよイヤよも好きのうちだよ」

「何だそれ」あたしは鼻で笑った。「てかさ、あんたいつからそんな親孝行になったわけ?あんたはこんな田舎の小さな牧場で一生過ごしていくの? それで文句はないわけ?」

「ないよ。わたし、この街好きだもん」

「つまんない。もっと向上心持ちなよ」

「都会に行くことが向上心なの? ここでだって出来ることはいっぱいあるよ」

「都会にはその何倍も、出来ることがある」

「わたしのやりたいことはここにしかないもん」

「それは他のことが見えてないだけだって」

「お姉だって――」美月は自分の口調の強さに気付いたらしく、言葉を切って俯いた。それから静かに続けた。「同じじゃん。見えてないのは」

 帰って来たくて来たわけじゃないけれど、いつも陽気な妹を落ち込ませるのは本意じゃない。あたしは己の顔に湯を掛けてから、立ち上がった。

「出る。これ以上いたら湯あたりしそう」

 言いながら、スマホを取って湯船から出た。シャワーで一通り体を流してから、あたしは美月に言った。

「心配されるようなことは何もないよ。今回はほんとに、たまたま近くを通りかかっただけ。てか、あんたが余計なことしなければさっさと通り過ぎてたんだからね」

「意地っ張り」

 ブクブクと泡を立てる音と共に、そんな声が聞こえてきた。

 髪を乾かし服を着て、脱衣所を出たあたしは若干湯あたり気味の頭を抱えて台所へ向かった。

 両親は既に床に着いたらしく、電気は消えていた。あたしは暗い台所で冷蔵庫を開け、瓶詰めの牛乳を一本取って開けた。一息に半分飲み干すと、思い出したように空腹を感じた。そういえば夕飯を食べてなかった。

 食べ物を探すまでもなく、ラップをしたおにぎりの皿をシンクの上で見付けた。

 一つ手に取り、齧り付いた。一口目からいきなり大きな梅干しに行き当たった。久しぶりに食べる、本当の梅おにぎりだった。あたしは米を夢中で頬張った。一つでは足らず、二個、三個とあっという間に平らげた。

 記憶にある味より少ししょっぱいような気がする。指に付いた海苔をしゃぶりながら、そんなことを考えた。

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