3-6

 あたしは一穂を連れて部屋を出た。それからガレージへ向かい、ハンプティ・ダンプティのトランクを開けた。

 スマホのライトで照らした庫内には、死体も、意識を失った成人男性の肉体もなかった。代わりに紙束やチューブファイル、書類ボックスがぎっしり詰まっている。端の隙間には、トロフィーや盾の類いも入れていた。

「これは?」

「あたしが得るかもしれなかった栄光の数々」

 一穂は要領を得ないような顔をしていた。そりゃそうだ。

「話せば長くなるから掻い摘まむと、盗まれた手柄を盗み返した結果がこれってこと」

「元は綾瀬さんの物なんですか?」

「まあ、大まかに言えばそういうこと。厳密に、そして法的には盗品だけど。あたしはこれを網走の海へ捨てに行くの」

 あの子が息を詰める気配が伝わってきた。

「嫌いになった、あたしのこと?」

「いえ」一穂は首を振った。「人が詰め込まれていなくていなくて安心しました。たぶん、こうなったのにはそれなりの事情があったんでしょうね」

 それなりの事情、とあたしは口の中で独りごちた。

「ちょっと散歩でもしようか」

 あたしは一穂を促してガレージの裏へ回った。

 夜の静寂を犬の吠える声が引き裂いた。

 すると声の主は、裏口の脇で寝ていた柴犬のボビーだ。大人しくするよう制しながら、紐を解いてやった。

「あたしのこと、忘れてなかったか」尻尾を振りながらじゃれついてくる愛犬を両手で撫でる。硬い毛の感触も、記憶のものと変わっていなかった。

 道順は、時間外の散歩に喜びを隠しきれないボビーが教えてくれた。ボビーは、人間の三倍の速さで歳を取っている筈なのに、老いを感じさせるどころか昔より力を増しているようだった。

 緩やかな坂道を登った先の丘からは、うちの敷地が見渡せた。といって、大した物があるわけでもない。牛舎にサイロ、倉庫、殆どの窓に灯りの入っていない古い家。星が瞬いている分、空の方が明るいぐらいだ。昔は大嫌いな眺めだったけど、この時は不覚にも懐かしさを感じてしまった。

「僕、牧場に来たのって初めてなんですけど」一穂が言った。「なんだかとても落ち着きますね」

「一度もないの? 道民なのに」

「札幌の人がテレビ塔に登らないのと一緒です」

「え、そうなの?」

 札幌に着いた時、いの一番に向かったのがテレビ塔だった。その次がJRタワー。最後に藻岩山に登った。恥ずかしいから言わなかったけど。

 風が、牧草を撫でながら上がってきた。微かに冷たささえ感じられた。

 そして、漏れなく付いてくるのが家畜のにおい。干草やら肥料やら獣の体臭やら糞やらが渾然一体となって作り出すあのにおいが、ここの空気には混じっている。

「くさい」あたしは言った。

「え、そうですか?」

「くさいよ。くさくて退屈で真っ暗な、世界に取り残されたみたいな田舎」

「僕は好きですけど。星も綺麗ですし」

 言われてあたしは空を見上げた。札幌で見るのと変わらない気がするけど、そもそも札幌で夜空を見上げたかも覚えていなかった。取り敢えず、写真には収めた。

「駄目だよ、未来ある若者がこんな所に憧れちゃ。ここは年寄りばっかりで、街自体が老いて死ぬのを待ってるようなもんなんだから」

「それでも、生きてるじゃないですか」

 一穂の言葉で、あたしは自分の無神経に気が付いた。

「あ、ごめん……」

「いえ、僕の方こそ」一穂は俯いた。「すみません」

 草の揺れる音が聞こえた。足下でせがまれたので、あたしはボビーの首輪から紐を外した。このまま野生に帰ってしまうのではという勢いで、柴犬は草原へ駆け出していった。

 あたしは訊ねた。

「一穂は、やっぱり七蘂が好き?」

 答えが返ってくるまでには時間が掛かった。

「好き、といえるのかはわかりません。ただ、札幌では居心地の悪さを感じてて、七蘂に戻りたいとは思っていました」

「あたしも同じなのかな」闇に沈む牧場を眺めながら、そう思った。「ここがイヤだから、ここじゃない別の場所に行きたかっただけなのかも。そんなだから、札幌からも逃げ出すことになった」

 一穂から問うような気配が伝わってきた。

「お腹にね、赤ちゃんいるんだ」

 スルリと言葉が出た。言ってから、言ってしまったことに気が付いた。もちろん気付いた時には後の祭りで、言葉は既に相手の耳まで届いてしまっていた。

 また一陣、風が吹き抜けた。遠くでボビーが吠えるのが聞こえた。

「え?」呆けたように黙っていた一穂が、思い出したように言った。「あの、その、何というか……おめでとうございます……?」

 何を言うべきかわからずにいるのが伝わってくる。中学生なら無理もない。

「すみません……僕、全然気付かなくて」

「一穂が謝ることじゃないよ」

 お腹の子の父親より一穂の反応の方が余程誠意に溢れていた。二重の意味で泣きたくなった。

「この子の父親ってのがね、さっきの荷物の持ち主」あたしは言った。「そいつはこの子のこと、あんまり喜んでくれなくてさ。ま、妻も子供もいる身だから当たり前かもしれないけど。つまりは、つまらない復讐ってわけ」

「つまらないことなんてないですよ。良いことかどうかは別として」一穂が言った。「むしろ、妥当なことというか……」

 あたしは肩を竦めた。

「ありがと」それから唇に人差し指を充て、「あ、それからこの子のこと、母さんたちには内緒ね?」

 一穂は強く頷いた。

「約束します。けど、どうして……言ったら喜んで貰えるんじゃないですか?」

「聞いたでしょ、さっきの喧嘩」

 一穂は黙る。

「音信不通だったのがいきなり帰ってきただけでアレだからねえ。妊娠してるなんて知ったらどうなるか。殴り合いになったりして」

「さすがにそこまでは……」

 ないだろうけど、でも、本当にその先は予想が出来なかった。父は静かな口調で嫌味は言っても、怒鳴る人ではない。怒りの振れ幅を超えた時どうなってしまうのかは、全く未知の領域だった。

「それにさ、もう決めたんだ」自然とお腹に手が伸びた。「一人で育てていこうって。いわゆるシングルマザーってやつ。家飛び出したからには、やっぱり親を頼るわけにはいかない。こうなったのは、あたしの都合だし」

 ボビーが尻尾を振りながら戻ってきた。存分に体を動かしたと見えて、息が荒くなっていた。

 あたしは黙り込んでいる一穂に言った。

「ごめんね、気にしないで。先週わかったばっかりで、体調とかまだ全然普段と変わんないからさ。運転だって大丈夫。七蘂まではちゃんと行くよ」

 風が段々と強くなってきた。

「冷えてきたし、そろそろ戻ろうか」

「はい……」一穂は何か考え込んでいる様子で頷いた。

 ボビーも吠えた。反対する者は、誰もいなかった。

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