3-4

   *


 衝動的に飛び出してもちゃんと迷わず部屋まで帰り着けるのだから帰巣本能というのは大したものだ――なんてことを考える余裕は、その時のあたしにはなかった。

 二年ぶりに入る自分の部屋は何も変わっていなかった。机もベッドも本棚も壁に貼った観たこともないフランス映画のポスターも、出て行った当時のまま。まるで時間の流れが静止しているみたいだった。

 感慨を受けるよりも、嫌味ったらしさを感じた。誰かに「お前は何も変わってない」と言われているような気がした。あたしは唇を噛んで、ベッドに飛び込んだ。これまで同じことがある度に、そうしてきたように。だけど今回は、すぐに仰向けになった。それぐらいの冷静さは残っていたのかもしれない。

 枕を取って顔に充てると、さっき廊下で出くわした一穂の顔が頭に浮かんだ。

「カッコ悪……」枕に顔を埋めたまま、あたしは呟いた。

 何も上手くいかない。

 あたしはこの家を出て行った時から何も進歩していない。自己嫌悪の沼に身体がズブズブと沈んでいくのが感じられた。

 気付けば、手はお腹を擦っていた。


   *


 居間でおばさんと話をしながら、僕は大体の状況を把握した。

 まず、この家が綾瀬さんの実家であること。

 それから、ここでの僕は家庭教師として働く綾瀬さんの教え子(勉強に行き詰まって家庭内暴力が酷くなったため母親から気分転換をさせるように頼まれたという経緯付き)だということ。

 また、さっきの喧嘩はこれまで全く音沙汰のなかった綾瀬さんをお父さんが叱ったために起きたこと。

 最後に、綾瀬さんが二年前、家出同然でこの家を飛び出して行ったこと。

「昔っから都会への憧れの強い子でねえ」と、おばさんは笑いながら話した。「こんな肥溜め臭い田舎はイヤだっていうのが口癖で。高校出て一年ぐらい外でアルバイトしてお金を貯めて、それで或る日いなくなっちゃったの」

「それっきり、今日まで連絡がなかったんですか」

「そうなの」

 おかしそうに言っているけど、とても笑い話じゃない。

「心配じゃなかったんですか? 警察に行ったりは?」

「もちろん心配だったけど、まあ本当に駄目になったら帰ってくるでしょうとは思っていたわね。お父さんが『ほっとけ』って言うから、警察にも行かなかったわ」

 僕は札幌にいる自分の母さんについて考える。息子が一夜明けても何の連絡も寄越さないことを、不審に思っているだろうか。塾に行かなかったことを知っているかもしれない。警察には連絡をしたろうか。それら全てのことが起きているようでもあるし、何一つ起きていないようにも思える。母さんは僕の不在に気付いていないのではという考えも浮かぶ。

 玄関の開く音がして、誰かが上がってきた。間もなくその人物は居間に現れた。薄ピンクのつなぎを来た若い女性だった。

「おとうってば人使い荒過ぎだよ。こっちは朝から実習だったってのにさー」この声には聞き覚えがある。たしか、車の中で綾瀬さんと話していた人だ。

「美月、つなぎのまま居間に来るんじゃないの」

「だって喉渇いたんだもん。てか、お父何かあったの? すっごい機嫌悪かったけど」

「ほっぺに干草付いてるわよ?」言いながらおばさんは腰を上げ、台所へ向かった。

「おや」美月さんは僕に気付くと、向かいに座って身を乗り出してきた。「目、覚めたんだ。調子はどう? もう大丈夫?」

「はい……お陰様で」僕は引き気味に答える。彼女の頬には、確かに干草のような物が付いていた。

「よかったよかった。ふーん」

 笑みを含んだ視線が、隠す素振りもなく向けられてくる。居心地の悪さを感じるなと言う方が無理な話だ。僕は言葉を捻り出す。

「あの……お姉様にはいつも大変お世話になっております……」

 すると美月さんはケラケラと笑い出した。

「ヤだな、『お姉様』だって! あのお姉が『お姉様』って! アハハハハ」

「あんたさっさと着替えといで。ご飯にするから」おばさんが二人分の麦茶を持ってきてくれた。

「一穂君も食べるわよね?」

「へー、一穂って言うんだ。可愛い名前だね」

 紛れもなく、この人は綾瀬さんの妹なんだろう。ちなみにおばさんにも同じことを言われたから、血というものは争えない。

「いえ、僕はもう……さっきおにぎりいただきましたし」

「あれだけで足りるの? 駄目よ、遠慮しちゃあ」

「そうだよ。だからそんな白くて細いんだよ。まあ、お姉のタイプって、こういう都会っぽい感じだけどね」

 どうしてここで、綾瀬さんの好みの話になるのだろう?

 疑問を発する間もなく、美月さんは着替えのため部屋へ行き、目の前の卓では着々と夕飯の準備が進められていった。僕がさっき食べたおにぎりは、どうやらおやつみたいなものだったらしい。

 夕飯は、これまで見たことないぐらい豪勢なものだった。

 卓の隙間を埋めんばかりに並んだ皿。そのどれもから湯気が上がっていた。僕が、夢の中でしか見なくなって久しい食卓の風景が、そこには広がっていた。

 美月さんは、その細い体のどこにそんなに入るのだろうというぐらい快調に箸を進めていく。おばさんは頻りに、僕に料理を薦めてくる。どんなに断っても「遠慮しちゃ駄目よ」と僕の空腹を疑わない。

 どうして、と思う。

 初めて会った人間に、どうしてこんなにしてくれるんだろう?

 綾瀬さんだってそうだ。彼女とだって、まだ会って丸一日しか経っていない。だけどあの人は、僕を助け、家出人と知り、その目的地が七蘂と知っても尚、僕を送り届けようとしてくれている。

 こんなことでは駄目だ。このまま、人の善意に甘えたままでは。

 何か返さなければ。何か一つでも返しておかなければ。

 そうでなくても僕は、あの人を裏切ろうとしているのだから。

 僕に出来ること。

 温かい食事を口に運びながら、僕はそればかり考える。

「一穂君、おかわりは?」

 言われて僕は顔を上げ、それから茶碗を見た。いつの間にか空になっていた。

 米。

 ふと、車の後部座席に置かれた米袋が蘇ってきた。

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