3-3
*
綾瀬さんに起こされ、後ろの席へ移動するよう言われたのは覚えている。
たしか、助手席に誰かが乗ってきた。女の人のようだったけど、誰だかはわからない。綾瀬さんの知り合いかな、と思っているうちに、僕は再び眠りに落ちた。
次に目が覚めた時には、車は森の中の一本道を走っていた。道は舗装されていないらしくて、車内は絶えず揺れていた。足下からはパチパチと、撥ねた小石が車の底に当たるような音が聞こえてきた。
最後に覚えている景色はコンビニの駐車場だったから、自分がどこにいるのかわからない。まだ夢を見ている気さえする。
そんな僕に、綾瀬さんが言った。
「ごめん、ちょっと面倒なことになったかも」
「面倒……?」そう呟いたつもりだけど、口が上手く動かなかった。
再び眠りに落ちて、夢を見た。
僕は自分の家の居間にいた。札幌の、ではなく七蘂の。
母さんがいて、父さんがいる。僕らは三人で、座卓を囲んでいる。
卓の上には、料理の皿が並んでいる。どの皿からも湯気が立ち上り、眺めているだけでこちらの気持ちも温まるようだった。
父さんが何か言い、母さんが口元を掌で覆いながら笑う。
狭くて古いけど、隙間風だって気にならない。そんな家。僕はそこに、帰ってきた。
そう、帰ってきたんだ――
気が付くと、僕は布団の上に寝かされていた。
目の前には知らない天井がある。古い、木目の天井だ。知らないけれど、どこか懐かしさも覚える。
どこだろう、ここは?
僕は身を起こす。意識は、未だ鉛がこびり付いたように重い。けれど、起きていられないほどではない。山道を走っていた時に比べれば格段に楽だ。
箪笥、カーテンの隙間から明りが漏れる窓、襖、硝子戸。今は誰も使っていないのだろう、黴のにおいが仄かに漂ってくる。余所の家のにおいだ。
立ち上がり、窓辺へ近付く。カーテンを小さく開くと、窓の向こうには夕日に染まる草原が広がっていた。橙と緑の風景の中には、点々と黒い四つ足の影が見える。牛だ。とすると、ここは牧場なのかもしれない。
微かに人の声がした。背後にある硝子戸の向こうだ。
固い引き戸を押すように開けると、暗い廊下があった。食べ物のいい匂いが漂ってきて、僕の腹が低く鳴る。先ほどまでの、苦しみ悶えるような音ではなく、食べ物を欲している音だ。
声は左手の、明るくなっている方から聞こえた。
無意識のうちに足を忍ばせ、近付いていく。聞こえてくる声の色が、決して穏当なものではなかったからだ。
「だから!」
綾瀬さんの声だ。僕は足を止めた。
「こっちは帰ってくる気なんかなかったっつーの! 今こうしてる間だって、こっちは一刻も早く出て行きたいんだよ!」
「綾瀬」別の女の人の声が宥める。
「ならさっさと出て行け。街に行けば泊まる所はいくらでもある」
「お父さんも。少しは綾瀬の話を聞いてあげましょうよ」
「別に話すことなんか何もないし」
「何となく都会に憧れて出て行った奴に、そう大した理由もないだろう」
「だから勝手に決めんなよ!」
「綾瀬」
「お前は何をするにも軽薄なんだ。今回のことだって、お前が考えていれば余所様の子をあんな風にはせずに済んだんだ」
もしかしなくても、僕の話だ。
「何を知ってんだよ」綾瀬さんが、唸るように言う。
「大体想像が付く。お前、本当にあの子の親御さんに許可を取ってきたんだろうな?」
「どういう意味だよ」
「お前が勝手に連れ出して来たんじゃないかと言ってるんだ」
「お父さん、綾瀬の言い分も聞かなくちゃ」
「久しぶりに会ったら早速犯罪者扱いかよ」綾瀬さんが呟く。
「綾瀬、お父さんも心配してるのよ」
「心配などしておらん」
「お父さん!」
「だから帰ってきたくなかったんだよ」
「ちょっと綾瀬?」
床を踏み鳴らすような音がした。
その時にはもう手遅れだった。僕は、居間を飛び出してきた綾瀬さんとばっちり出くわした。
「あ」声に出したのは僕だけど、綾瀬さんも同じことを言いそうな顔をしていた。
こんな時、何を言ったらいいかなんてわからない。そもそも答えなんてあるのだろうか。
綾瀬さんは目を逸らし、僕の横を抜けていく。振り返ったけど、彼女の姿はもう、暗がりの中へ消えていた。
「あら」さっき聞こえていた女性の声がした。「目、覚めたのね」
どことなく綾瀬さんの面影がある、エプロン姿のおばさんが立っていた。たぶん、というかほぼ確実に、綾瀬さんのお母さんだ。
「もう大丈夫? お腹空いてない?」
「あ、えっと……」
こんな時、僕の腹は鳴ったりする。
おばさんは笑った。
「おにぎりあるから、こっち来て座って頂戴」そう言っておばさんは、居間の方へと戻っていった。
逃げるわけにもいかず、僕も続いた。
居間には誰もいなくて、ちょっと安心した。綾瀬さんのお父さんと思しき人は、どこかへ行ってしまったらしい。
四角い座卓の、隅の席に座る。ソファがあってテレビがある、普通の居間だ。煙草のにおいがすると思ったら、卓には硝子の灰皿が置かれていて、その中でねじ込んだような吸い殻が微かに煙を上げていた。
「騒々しくてごめんなさいね」大きな皿を持ってきながら、おばさんは言った。「いきなりあんなとこ見せられたら、びっくりするわよね」
「いえ……僕の方こそすみませんでした。僕が倒れたばっかりに……」
僕が倒れたりしなければ、綾瀬さんはお父さんと喧嘩することもなかった。僕が不幸をもたらした。
「いいのよ」おばさんは笑う。「あの二人には丁度いいきっかけになったんだから」
「そうでしょうか」
「そうそう。だからそんな顔しないで。ほら、食べて食べて。あ、お茶持ってくるわね」
おばさんは台所へ戻っていく。僕は皿に載ったおにぎりを一つ手に取った。一口囓っただけで、大きな梅干しが現れた。
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