2-7

   *


 ただ本当のことを言うだけだ。難しいことなど何もない。

 それなのに。

 頭ではわかっているのに、泪が溢れて止まらない。止めようと堪えるほど、余計に目の奥から搾り出されてくるようだ。

 運転席から戸惑いがはっきりと伝わってくる。このままでは何も進まない。

 泪を止める手段は、一つしかない。

「あの、綾瀬さん」

「ん?」

「僕、本当は……」喉が締まり、言葉が詰まる。

 綾瀬さんは続きを待っているのか、促してくるようなことはしない。全てのタイミングは、僕に委ねられている。どこまでを話すかという権利も。

 深呼吸を置いて、もう一度言う。

「僕、本当は七蘂に行きたいんです」

「七蘂」彼女は繰り返した。驚いたのかもしれない。

「そこに、僕の家があるんです」

 同級生たちの声や眼差しが脳裏に蘇ってくる。

 あいつの周りにいたら病気になる。

 あいつの周りにいたら凍らされる。

 あいつは人間じゃない。

 あいつは呪われている。

 あいつは氷の世界から不幸を持ってきた――

 道路を大きなトラックが唸りながら通り過ぎる。巻き起こった風と振動が、小さな車を揺らす。沈黙が戻ってきても、綾瀬さんは何も言わなかった。

 やっぱり、こういう反応になるのだ。明確な拒否ではない。戸惑い。けどそれも、拒否する気持ちがあるが故のものだ。分類すれば、やっぱり拒否の一種になる。

 僕は沈黙に耐えかねて言った。

「すみません、今まで黙っていて。降りろというなら、ここで降ります」

 荷物を取ろうと車を回りかけると、呼び止められた。

「何で?」

 不意を打たれ、何を言われたか初めはわからなかった。こちらの準備が整わないうちに、綾瀬さんは続ける。

「何で降りるの?」

「だって僕は嘘を吐いていましたから」

 根室と七蘂では、目的地としての意味合いが大きく違う。後者には何かしらの〈影〉が付きまとう。行きたいと思う人間はまずいない。

「もしかして、あたしが嫌がってるとか思ってる?」綾瀬さんが言った。

 同時に、別の声も聞こえる。

 あいつの周りにいたら病気になる。

 あいつの周りにいたら凍らされる。

 僕は頷いた。

 突然、綾瀬さんが手を伸ばしてきた。そしてアッと言う間に、彼女は両手で僕の頬を挟んだ。冷たい手だった。僕には逃げる暇もなかった。

 あいつは人間じゃない。

 あいつは呪われている。

 あいつは氷の世界から不幸を持ってきた。

「駄目だよ、そういうの」彼女は言った。「他人の気持ちを勝手に想像して、勝手に決めつけるのは。君の心が複雑なように、他人の心だって複雑なんだ。自分でもよくわからないぐらいに」

 また、道路をトラックが通り過ぎた。車内にいる僕らがどう見えているのか、想像に難くない。キスでもしようとしているように取られるに違いない。

「あたしは行くよ、七蘂まで。七蘂だろうがカムチャツカだろうが、君を連れて行く。嫌だと言ってもついていく」

 また視界が霞む。さっきとは違い、胸の中にお湯が注がれたような心持ちがした。

 七蘂のことを話して、少しでも身を引かなかった人は初めてだった。

 まずい、と頭の中で誰かが言う。これはまずい展開だ。

「どうして……」尖らされた口で僕は問う。

「あたしが行きたいから。あたしの車で何処行こうが、あたしの勝手でしょ」

「でも、危険ですよ」

 すると彼女は一層強く僕の頬を挟んできた。

「それを理由にするなら、あたしは今ここで、全力で君を止める」

 綾瀬さんの眼が、僕の胸の内側を覗き込んでくるようだった。

 強い光を湛えた瞳から、目を逸らすことが出来ない。逸らせば逆に、もっと深くまで見透かされるに違いなかった。それだけは何としても避けなければならない。だけど、眼が逃げたがる。気持ちが土台から揺れている。

 彼女の優しさは危険だ。家を出る時に固めた意志が、氷のように溶けていくのがわかる。

 口が開きかける。

 自分が七蘂まで何をしに行こうとしているのか、喋りそうになる。

 駄目だ。僕の声が言う。

 これ以上のことを話すのは、それは今度こそ〈甘え〉でしかない。

 お前はどこまで恥を重ねるつもりだ?

 僕の声の向こうから、父さんが言う。

「真っ直ぐな人間になれ」

 ごめんなさい、父さん。

 僕は父さんの言いつけを守るには未熟で、あまりに疲れすぎているみたいだ。


 短いクラクションが二度鳴った。

 砂利をタイヤで踏みながら、自動車が一台、駐車スペースに入ってこようとしていた。僕らの車が駐車を妨げていたようだ。

 僕は綾瀬さんの手から解放された。彼女は「行こう」と言って、キーを回した。カリカリカリという乾いた音の後でエンジンが掛かり、ハンプティ・ダンプティに似た小型車は東へ向かう道へ戻った。

「さっきの続きなんだけどさ」ハンドルを握りながら綾瀬さんは言った。「七蘂には、家族がいるの?」

 湧くべきして湧いた、当然の質問。七蘂を出て札幌で暮らしていた中学生が、再び七蘂へ帰ろうというのだ。家族が、殊に親が、七蘂にはいないと考える方が普通だろう。

 僕はフロントガラスの向こうを見て、サイドミラーを見た。それから再び、股の間で組み合わせた自分の手に目を落とした。左の親指が上になって重なっていたのを、右が上に来るよう入れ替えた。

 それから、深呼吸をした。

「はい、父がいます」

 僕は結局、嘘つきのままだった。


   *


 あたしは横目で一穂の方を見てから、再び前方へ眼を戻した。

 たぶん本当のことを全ては話してくれてないんだろうな、と思った。でもまあ、それでもいいか、とも。七蘂まではまだ時間も距離もあった。

 本人は清水の舞台から飛び降りるような心持ちだったかもしれないけど、こちらとしては想定していた告白だった。だから驚きはなかったし、責める気持ちにもならなかった。そもそも、どこの誰であろうと車から蹴り出すようなことをする趣味はあたしにはない。

 それに、こちらにだって隠していることはたくさんあった。一穂に対して騙し討ちのようなことは、この時既にしていたわけだし。

 全て承知していたからこそ、あの子が本気で七蘂を目指していることがわかった。尤も、その先にある〈目的〉まで知ることが出来ていたのなら、事態はもう少し別の結果になったのかもしれないけど。

 七蘂。

 久しぶりにその名前を耳にした。

 氷で閉ざされた街。

 地図から消えた街。

 五年前、あの事故の直後は、その街に関するニュースを見ない日はなかった。凍てついた海と、氷細工のような街並み。その光景はまるで、映画の一場面のようだった。というより、現実のこととして感じられなかった。頭が勝手に〈空想〉として処理してしまったのだ。

 道外ではどうだか知らないけど、道内では事故から一年ぐらいは連日七蘂のことをやっていた。だけど、時間を追う毎にテレビのニュースも新聞の紙面も他の話題に差し替わっていった。

 当時高校生だったあたしは、コンビニで買い物をした時に出たおつりを全部募金していた。あたしはそのことを急に思い出し、そんなことを今の今まで忘れていた事実にショックを覚えた。日本地図で見た時でさえ目と鼻の先程度にしか離れていない場所で起こった〈悲劇〉を、たったの五年で〈なかったこと〉にしてしまっていた自分に、だ。

 行かねばならない、と思った。

 罪滅ぼしの気持ちが全くなかったわけじゃない。けど、そんな安い気持ちとは違う何かが、あたしを忘れられた街へと誘っていた。

 やがて、窓の外に木が増えてきた。車はいつの間にか、暗い山道に差し掛かっていた。

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