2-6

 綾瀬さんの出番は五番目だった。

 これまでの出場者の中で彼女は一番若く、また初めての女性だった。何となくつまらなそうにしていた客席が、心なしかステージへ興味を示したように見えた。

「五番、森川綾瀬。『津軽海峡・冬景色』」

 聴いたことのあるイントロが流れ出す。演歌だ。

 夜行列車で東京を出た女の人が、青森で連絡船に乗るといった内容の歌詞。降りしきる雪とか曇った窓とか、夏の青空の下で聴くには全くそぐわない真冬の歌だ。

 僕は演歌に、というより「歌う」という行為全般に明るくないので、綾瀬さんの歌が上手いかどうかはわからない。もしかすると彼女の歌は、聴く人が聴けばそれほどのものでもないのかもしれない。

 だけど僕は、ステージでマイクを握る彼女に心を奪われた。

 彼女から目が離せなくなった。

 何故か、と問われると、答えはすぐには出てこない。むしろ、僕が教えてもらいたいぐらい不思議な感覚だ。

 歌詞の持つ意味とは違う何かが、綾瀬さんの歌にはこもっていた。僕の心を鷲掴みにしたのはたぶん、その「何か」だ。未練、切迫、哀愁。色んな言葉を当てはめてみるけど、しっくり来るものが見つからない。

 いや、どんな言葉で表すことも出来ないのかもしれない。

 ただ、僕の胸に浮かんだ感情の側から見ると、最適な言葉が一つあった。僕はそれを、口の中で呟いていた。

「同じだ……」

 満腹になるとおへそを丸出しで眠る彼女。

 僕の生きてきた世界にはいなかったタイプの彼女。

 全く共通点はないはずなのに、今まで出会った誰よりも近しいものを感じてしまった。

 綾瀬さんが喉の奥から搾り出し、マイクを通して会場全体に響かせる感情は、たぶん僕の中にもある。一切合切同じではないかもしれないけど、ニアリーイコールで結べるぐらいに近しいものは持っているはずだ。

 彼女もまた、何かを抱えているのだろうか。

 あっけらかんとしているように見えて、一人では抱えきれない荷物を背負っているのだろうか。

 今の今まで気付かなかったのは、彼女が大人だからか。僕が子供だからか。

 だとすれば。

 だとすれば、僕の荷物の存在は彼女に気付かれているのだろうか。

 僕が必死で隠そうとしていたものを、大人の彼女は見抜いていたのだろうか。

 僕が自分から喋り出すのを、黙って待っていてくれたのだろうか。

 腕の中でパキパキと、プラスチックのパックが音を立てる。

 だとすれば。

 だとすれば、僕は恩人に対して、途轍もなく無礼な仕打ちをしていることになる。

 父さんの顔が浮かぶ。父さんに何度となく言われた言葉が、記憶の底から蘇る。

「結果は駄目でもいい。逃げたっていい。だけど、誰かを欺くのは駄目だ。真っ直ぐな人間になれ、一穂」

 歌が終わった。

 綾瀬さんは拍手に包まれながら一礼した。

 彼女が顔を上げた時、僕は「あ」と思った。

 なんだかずっと前から、綾瀬さんのことを知っているような気がしたのだ。もちろん、錯覚なのはわかっていたけど。


   *


 手応えはあった。

 全国放送の舞台を踏んだ経験がここで生きた。こんな名前も知らない小さな街の、しかも多くはない聴衆の心を掴むことなど、あの帯広のホールに比べたら雑作もないことだった。舞台袖に引っ込んだ時、ついガッツポーズしてしまったほどだ。

 だけど結果は二位。優勝は、あたしの次に出て越路吹雪を歌った地元のおばさんだ。まあ、たしかに上手かったけど。

 優勝を逃したのは仕方がないとしても、二位の賞品には閉口した。

「ゆめぴりか二十キロを差し上げまーす」

 司会の女の子の読み上げるような言葉と共に、台車に乗せた五キロの米が四袋運ばれて来た。

 もしあたしがあと百年早く生まれていたら、飛び上がって喜んだかもしれない。だけど今は二十一世紀。世の中には米を食べずに痩せようとする人間さえいる時代だ。あたしは炭水化物を抜いてまでダイエットに励む予定はなかったけど、二十キロもの米を欲するほどお腹を空かせているわけでもなかった。少なくとも、旅先でもらって嬉しい物ではない。

 交渉の末、どうにか半分の十キロだけを持ち帰ることで折り合いがついた。五キロの袋が二つ。これは一袋ずつ一穂と担いで、あたしたちはハンプティを預けたガソリンスタンドへと戻った。三十分近く掛かった。

 計器の修理は終わっていた。けれどファイターズ帽のおっさん曰く、完璧に直ったわけではないらしかった。

「やっぱり部品が足りなくてよ。応急処置程度のことしか出来なかったわ」

「ありがと。壊れたままよりはマシだよ」

 あたしは代金を払い、米も一袋渡した。おっさんは思いのほか喜んでくれた。

 残る一袋を後部座席に乗せると、一穂が不思議そうな顔を向けてきた。

「トランクに入れないんですか?」

「生憎、トランクはいっぱいでね」昏倒した奴の姿を思い浮かべながら、あたしは言った。

 一穂は何も言わなかった。何か考え込んでいるみたいだった。

 エンジンを掛け、車を出発させた。窓越しにおっさんに手を振りながら、道へ出た。

 しばらく走ってから、一穂が意を決したように言った。

「綾瀬さん、大事なお話があります」

「大事な話?」あたしはハンドルを握ったまま訊ねた。

「どこか停まれる所はありませんか?」

 そう言われ前方を見渡すと、道端に無人精米所のプレハブが見えた。その周りが駐車スペースになっているようだったので、車を入れた。

 サイドブレーキを掛けてエンジンを切ると、車内はたちまち沈黙に支配された。

 一穂がなかなか話し出そうとしなかったので、こちらから口を開いた。

「なに、話って?」

 言ってから、あ、と思った。

 あの子はポロポロと泪を流していた。

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