2-4

   *


 風呂に入って飯を食って、次にやって来るものといったら決まっている。睡魔だ。

 というわけであたしは、牛になることも厭わず座布団を枕にして横になった。眠りは速やかにやって来た。

 夢を見た。

 夢のくせに妙に質感を持っていたのは、それがほんの十二時間前、札幌の奴の事務所で現実に起きたことだったからだ。

「……今の、本当かい?」

 眼鏡の奥で狼狽える眼差し。ソファーに掛ける奴は、あたしから顔を逸らした。

「冗談だったら、もう少し面白くするよ」

 無言。

 水槽の熱帯魚たちに酸素を届けるコンプレッサーの音だけが、通奏低音となって響いていた。

 あたしの心は凪いでいた。全く以て予想通りのリアクションだった。

「別に喜んでくれなくてもいいよ。あたしの答えは決まってるから」

 奴はしばらく俯いてから、意を決したようにこちらを見上げた。

「終わりにしよう、僕たち」

 あたしは堪えきれず、笑ってしまった。

「何だよ」奴の顔が、怯えによって歪んだ。

 あたしは笑みを残したまま言った。

「そう言うんだろうなと思ってた」

 次の瞬間、奴の頭がぐらりと揺れた。電源が切れたように身体を支える力が抜け、奴は応接用のソファーに沈んだ。

 あたしはしばらくの間、動かなくなった男を見下ろしていた。水槽のコンプレッサーが、やけにうるさく感じられた。或いは別の音だったのかもしれないけど、確かめる術はないし興味もない。


   *


 綾瀬さんは起きる気配がない。無防備にへそを覗かせて、ぐっすりと眠り込んでいる。

 やることのなくなった僕は、点けっぱなしになっている大型テレビへ目をやった。

 流れていたのはドキュメンタリーだった。プリンみたいに根元が黒くなった金髪頭の若い男が、インタビューを受けていた。

 音が小さくてよく聞こえなかった。けどその内容が、五年前の〈あの事故〉で故郷を追われた七蘂の人々を追い掛けたドキュメントであることは、間もなくわかった。わざわざ図解付きで、事故の顛末が説明されたから。

 画面には、青い水面で茶柱が立っているようなCGが映されていた。水面が海で、茶柱が件の潜水艦だ。

 この潜水艦について、僕たちはあまり多くを知らされていない。

 極秘裏に開発された新型エンジンで、原子力より遥かに安全で高出力だと専門家たちの間では考えられていた、ということぐらいしか公表されていない。あとわかっていることといえば、そうした専門家たちの考えが、全くの見当違いだったということだけだ。

 CGでは、潜水艦を中心に白い靄が広がっていく。靄が通り過ぎた水面は、青から限りなく白に近い水色に変わる。「凍った」という表現なのだろう。カメラのアングルがは俯瞰に移り、地表から引いていく。その間も水色の円は海を染めながらぐんぐんと大きさを増していく。

 円の左側が陸地に達した。赤い点が打たれ、『七蘂町』という文字が表示される。ほとんど白い水色の円は、海に沿って縦に伸びる街を完全に覆っていた。

 画面が切り替わり、集合写真が映し出された。僕は心臓が縮まる音を聞いた気がした。

 その写真は港で撮られたもののようだった。漁船をバックに、その乗組員と思しき男たちが肩を組んだり腰を屈めたりして並んでいる。

 全体が映ったのはほんの一瞬で、すぐに金髪青年が映った部分のクローズアップになった。そもそも、彼以外の人々の顔にはぼかしが掛かっていた。だから、その中から、たった一人の顔を探すことなんて出来る筈がなかった。

 だけど、一瞬だけ映った集合写真の残像は、僕の意識にたしかに焼き付いた。

 そこには、眩しそうに笑う父さんが映っていたかもしれなかった。

「フガッ」

 豚が忘れ物に気付いたような音がした。間もなく長テーブルの向こうで、綾瀬さんがのっそりと起き上がった。

「今、何時?」

「十二時前です」

「もう昼かー」欠伸混じりに言いながら、綾瀬さんはメニューを手に取る。

「食べるんですか?」僕はギョッとして言った。

「だって昼だよ? お腹空いてないの?」

「食べたばかりですから」それに一歩も動いていない。綾瀬さんに至っては朝食(ミックスフライ定食!)を食べ終えるや寝転がっていた筈だ。

「まあ、たしかに、あたしもまだ少し朝食が消化しきれてないかも」

「少し?」

 唖然とする僕を余所に綾瀬さんは大きく伸びをして、腰を上げた。

「ちょっとその辺、散歩でもしてこようか」

 言うなり彼女は、荷物を持って出口へ向かった。僕は、竜巻が過ぎた後の部屋にいるような気持ちで呆然としていた。

 未知との遭遇。

 綾瀬さんのようなタイプの人は、やっぱりどんなに記憶を漁っても、僕の周りにはちょっといなかった。

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