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   *


 トラックに戻り走り去っていく運ちゃんを見送ってから、あたしと一穂はガソリンスタンドへ車を押し込んだ。

 小さな街にある、一度に一台しか給油出来ないような小さなガソリンスタンドだった。自動の洗車機なんて物はなく、敷地の隅にはどれぐらい前からそこにあるのか想像もつかないタイヤが山と積まれていた。

 営業しているのかどうか怪しんでいると、ファイターズの帽子を頭に載せたTシャツ姿のおっさんが事務所から出てきた。

「もしかしてさっき電話くれた? 悪いねー。ずっと便所にこもっててさ」

「レギュラー満タンで」あたしは眉を顰めながら言った。「それから、計器の修理って出来ます?」

「場合によるなー。どれ」

 おっさんは運転席へ乗り込んで、計器の具合を調べた。内心、ちゃんと手が洗われているのかどうか気が気じゃなかった。

「直らんこともないが、ちょっとばかし時間が掛かるな」

「どれぐらい?」

「今からやって――昼過ぎぐらいかな」

「じゃあ、お願いします」

「完全には無理かもしれないってことだけ頭に置いといてくれな。こんな懐かしい車、純正の部品なんて残ってないから」

「大丈夫です」あたしは肩を竦めた。

 ハンプティ――本当は「オリオン」という、この北の大地にはあまり似つかわしくない名前を持つこの車は、五十年も前のほんの一時期だけ製造された稀少な車だ。

 稀少といえば聞こえは良いけど、発売後すぐに様々な部分での欠陥が見つかり、すぐにリコールされたらしい。この車を作っていたマツハシ重工が元々大きな会社でもないため、リコール騒ぎの呷りを受けて敢えなく倒産。大して性能も良くないし、デザインもフィアットの劣化コピーとあって、市場でも大したプレミアが付かず、本当に一部の好事家を除いては見向きもされない代物となり果てた。

 そんな身の上の車だから、当然交換用の部品なんてある筈もない。他社品で代替できる部分は代替するけど、そうじゃないところに関しては諦めるしかなかった。

 ただひたすら老いていき、やがて来る死を待つだけの車。

 それがあたしの愛車、世話の焼けるハンプティ・ダンプティなのだった。

 聞けば、近くに温泉があるらしかった。汗も掻いたことだし、時間を潰すためにも、ひとっ風呂浴びに行くことにした。

 ファイターズのおっさんの言い方では五分ぐらいで着くようなことを言ってたけど、実際は歩いて十五分掛かった。田舎者の「近く」が信用出来ないことを、あたしは札幌で暮らすうちに忘れてしまったみたいだった。

 やがて辿り着いた入浴施設は結構新しく、地元民と思しき客で賑わっていた。あたしと一穂は食堂兼休憩室で待ち合わせることにして、女湯と男湯に別れた。そういえば下駄箱で靴を脱いだ時、「混浴だったら良かったのにね」と冗談で言ったら、彼は目を白黒させていた。本当に、絵に描いたような少年だった。

 脱衣所で、あたしは鏡に映った自分と向き合った。その体を上から下まで観察したけど、特に変わった様子はなかった。

 ほんの数日前、病院で聞いた医師の言葉が間違ってるんじゃないかと思えるぐらい。


   *


「烏の行水」という言葉があるけれど、ここでの僕の入浴はまさにそれだった。

 原因は主に二つある。

 一つは、周りのおじさんたちがやたらと声を掛けてきたこと。湯気越しに見渡す限り、最年少は僕だったようで、しかも未成年者も僕一人だったらしい。おじさんたちは僕がタオルをあてがった下半身に頻りに視線を注いできて、口々に「ちゃんと使ってるか?」と訊いてきた。どういう意味かわからないなんてカマトトぶる気はないけれど、何か気の利いた答えが出来るほどの余裕も僕は持ち合わせていなかった。

 二つ目の理由。それは、何というか――

「お待たせー」肩にタオルを掛けた綾瀬さんが戻ってきた。

 乾ききっていない髪に、赤らんだ頬。シャンプーだろうか、花のような香りが漂ってくる気がする。僕は思わず目を逸らした。自分と関わりのある余所の女の人のそんな姿を見るのは初めてなのだ。

 彼女は瓶入りの牛乳を二本、手にしていた。片方は僕のために買ってきてくれたらしい。ビニールを剥き、紙の蓋を小指の爪で器用に剥がすと、綾瀬さんは一気に半分ほど飲み干した。

「あー、風呂上がりはコレだね」綾瀬さんの「あー」には濁点が付いていた。

「すごく美味しそうに飲みますね」僕は言った。「牛乳、好きなんですか?」

「飲むのは、ね。でも搾るのは嫌い」

「搾る?」

「それより何か食べようよ。朝から何も食べてないんだし」そう言って彼女は、傍に立て掛けてあったメニューを開く。テーブルが、手書きの文字で埋め尽くされた。

 僕らはきつねうどんとミックスフライ定食を注文した。それを待つ間、これからの行程に関する話になった。綾瀬さんはテーブルにスマホを置き、Googleマップを立ち上げた。

「今、あたしたちがいるのはここね」

 現在地を表す青い点を中心に、地図を縮小させる。北海道の下半分を縦に走る日高ひだか山脈の、丁度左側に青点は付いていた。

「これから山を越えて――」

 綾瀬さんの指が、いくつもの地名を弾き飛ばす。

十勝とかち平野を突っ切っていく、と」

 僕は頷く。

「まあ、あのオンボロに磨きの掛かった車とあたしたちの体力を考えると、釧路くしろの辺りが今日の限界かな。ここらでホテルにでも泊まって、明日は根室、と。OK?」

「はい」つい、声が固くなってしまった。地図の端に『七蘂町』の文字が見えたせいだけど、何か誤解を与えたようだった。

「大丈夫だよ。変なことはしないから」

「え?」

 綾瀬さんは唇を曲げる。

「それとも、何か期待してた?」

「え、いや――」同じ部屋に泊まることを想像したら、鼻の奥が温かくなった。けど、別室にして下さいと言うのも図々しい気がした。なにせ今の僕は、全くの文無しなのだ。

 そこへ、うどんと定食が運ばれてきた。前者は僕で、後者は綾瀬さんの注文だ。綾瀬さんはおもむろにスマホを取り出すと、写真を撮った。SNSにでも載せるつもりなのだろうか。

「何はともあれ、まずは腹ごしらえだ」言いながら綾瀬さんは、割り箸を割った。

 僕のはなかなか割れなかった。

 うどんを啜りながら、本当のことは言うまいと胸の内で決める。言っても誰の得にもならない、と。

 オホーツク海にさえ辿り着ければ、それでいいのだ。後は自分の力でどうにか出来る。

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