2-1

   *


 道沿いに並んでいた灯りは段々と疎らになっていく。

 さっき見えた標識には『北広島』の文字があった。やっぱり車だとあっという間だ。歩きだったら、ここまで来るのは朝になっていたかもしれない。

 僕は彼女に嘘を吐いた。

 本当の目的地は根室ではない。

 だけど別に構わない。どうせ夜行バスで根室まで行った後は、七蘂まで路線バスで行くつもりだった。夜行がこの車に変わっただけのことだ。

 それに、僕が七蘂の人間だと、あの〈光〉を見た人間だと知られるわけにはいかない。

「ところでさ」運転しながら二つ目のおにぎりも食べ終えたTシャツさんが話し掛けてくる。「君のこと、何て呼んだらいい? フジオじゃないんでしょ」

「あ、佐久一穂と申します」言ってから、兼ねてからの疑問をぶつける。「何でフジオなんですか?」

「フジオっぽいから」

 反応に困る。

「うそうそ。ドラえもんのポスターが貼ってあったからだよ」

 そういえば、映画のDVD発売を知らせるポスターが貼ってあった気がする。いずれにせよ、フジオっぽさなんて得体の知れない雰囲気が漂っていなくて安心した。

「へえ、一穂って可愛い名前だね」

「女の子っぽいですよね」自嘲、という言葉を思い浮かべながら僕は言う。

「あたしは好きだけど。なんだか呼びたくなっちゃう。イチホちゃん」

 女の子っぽいという点については、結局否定はされなかった。どちらでもいいけど。

 僕は逆に質問した。

「お姉さんのことは、何とお呼びすればいいですか?」

「嬉しい。『おばさん』じゃないんだ」

「『お姉さん』ですよ」

 正確な年齢はわからないけど、たぶん二十代の前半、二十二、三ぐらいだろうか。塾で講師のアルバイトをしている女子大生とそう変わらないように見える。だけど、彼女たちよりもTシャツさんの方が大人に感じられる。老けているという意味ではなく、既に自分の力で生きている、という感じがするのだ。

「あたしは綾瀬あやせ。あ、これ下の名前ね。名字は森川もりかわ。森川綾瀬。どっかのアイドルみたいな名前でしょ」

「素敵です」僕は言った。

「最近の中学はお世辞の授業でもあるの?」彼女は笑った。

「お世辞じゃないですよ」

「はいはい。ありがと」

 本当にお世辞のつもりじゃなかったけど、どれだけ言葉を並べても結局本心は伝わりそうになかった。僕は諦め、シートに収まった。

 やがて高速道路の入口が見えてきた。けれど車は直進し、緑色の看板の前を通り過ぎた。

「あの、森川さん――」

「綾瀬」彼女は言った。「名字で呼ばれるの苦手なんだ」

 僕は女の人を下の名前で呼ぶことに慣れていない。声が上ずらないよう気を付けながら、言い直す。

「あ、綾瀬さん、乗せてもらっておいて図々しいんですけど……」

「別に気遣わなくていいよ。乗せたのはあたしだし」

 そう言ってもらえるのは素直に嬉しかったけど、それで気を緩めるほど僕はお目出度い性格ではない。

「どうして高速道路で行かないんですか?」道東を目指すなら、そちらの方が早い筈だ。

「あ、それ訊いちゃう?」

「え、ご、ごめんなさい」

「うそうそ」綾瀬さんは肩を揺すって笑う。「この車はね、スピードが出せないんだ」

「スピードが?」

「どんなにアクセルを踏んでも、時速六十キロまでしか出ない。一応の法定速度ではあるけど、道東自動車道は途中から片側一車線になるから、この速さで走るのはちょっとキツい。下道を走ってる時ですら、明らかに苛ついた感じで追い越されることもあるからね」

 言ってる傍から、後ろを走っていた車が運転席の向こうを追い抜いていった。

「速度が出ない理由は二つ。一つはボロいから。もう一つは――」そこで彼女の声音が変わった。群青色の絵の具を塗ったみたいに、低く暗いトーンになった。飽くまで僕の主観だけど。「トランクに重たい〈荷物〉を積んでるから」

 ヒヤリと、首筋に冷たいものを感じた。僕は咄嗟に肩を竦める。

 車が荷物を積むのは普通のことだ。けど、それが普通であるが故に、余計に得体の知れない恐怖を孕んでいるように思える。

 唾を飲み下す音が、やけに大きく聞こえた。自分のものなのに。

 何を積んでいるのか、訊ねる勇気はなかった。彼女の方を向くことさえ出来なかった。

「だからごめんね。急ぐ旅なのかもしれないけど」

「い、いえ……」

 気にならないといえば嘘になる。けど、ここで妙に怯えるのが失礼なことぐらい僕にもわかる。警察に連れて行かれそうになっていたところを助けてもらった恩人に変なイメージを抱くなんて、恥知らずもいい所だ。

 不自然に降りてきた沈黙を割く言葉を、僕は探した。けど、寂しい窓の外にも、出会ったばかりの僕らの間にも、そうそう話題は転がっていなかった。

「……ぼ、僕が乗ってても平気なんでしょうか?」結局、そんな問いしか出てこなかった。それがユーモアと実益を兼ね備えた精一杯の質問だった。

「大丈夫。むしろ前輪が地面に着くから丁度いいよ」綾瀬さんの声は普通のものに戻っていた。

 僕は胸の中に散らかった荷物を、全て心のクローゼットに押し込んだ。

「あ、そうそう。一穂、誕生日いつ?」

「誕生日、ですか?」突拍子もない質問に、簡単な筈の答えがなかなか出てこなかった。「四月十八日です」

「ふむふむ」

「何かあるんですか?」

「いや」綾瀬さんは肩を竦める。「なんとなく六月生まれっぽいなーと思ったんだけどね。外れたわ」

 取り残されたような気分を味わいながら、僕は彼女の笑い声を聞いた。

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