1-5
「お待たせ」
初め、それが僕に向けられた言葉だとは気付かなかった。
イートインコーナーの入り口に、今度は明らかに若い女の人が立っている。茶色がかったロングヘアーに、猫を思わせる釣り気味の眼。Tシャツに細身のデニム。ついつい胸元へ意識が吸い寄せられそうになるのを、僕は必死で堪える。
綺麗だけど、怖そう。僕のここまでの人生では巡り会うことのなかったタイプだ。
Tシャツの女の人は、持っていたビニール袋を掲げる。
「おにぎり、梅とたらこで迷ってさ。結局間をとって昆布買っちゃった――って、あんたもう食べてんの? 少しは我慢しなよ」こんなことを言いながら、彼女は僕と刑事たちの間に割って入ってくる。
「あなたは?」女刑事が怪訝そうな顔で問う。
「姉ですけど」
「お姉さん?」女刑事は更に眉を顰める。
僕とて同じ気持ちだったけど、顔には出さないよう気を付けた。僕は一人っ子だ。
「すみません、うちの弟が何か?」
Tシャツさんの問いに、刑事二人は顔を見合わせる。明らかに戸惑った様子が伝わってくる。
僕の腕が、グイと引っ張られた。
「ほら行くよ、フジオ」
フジオ?
「まだまだこれから道中長いんだから。あんたは乗ってるだけだからいいけどさ」
僕は間抜けに開きかけた口を引き締め、頷く。
「うん、姉さん」
Tシャツさんの口元に笑みが浮かんだ――ように見えた。
彼女はさっさと自動ドアの方へ向かっていく。僕は片手でリュックを拾い、もう片方でおにぎりを掴み、女刑事と銀髪へそれぞれ視線を投げてから踵を返す。刑事たちが追い掛けてくる気配はなかった。
「あ、あの……」外へ出て駐車場を歩く彼女を追いながら、その背中に呼び掛ける。「ありがとうございました」
Tシャツさんは自分の車に辿り着くと、まず助手席のドアの鍵を開けた。それから反対側へ回り込み、運転席側を解錠した。
「乗って」丸みがかった低い屋根越しに、彼女が言った。よく見ればこの車、さっきまで僕と睨めっこをしていたハンプティ・ダンプティだ。「早く乗って。あいつら、まだこっち見てる」
振り返ろうとしたら「見るな」と鋭く言われた。僕は急いでドアを開け、リュックを抱えて助手席へ滑り込んだ。
運転席にはTシャツさんが乗り込んできた。荷物を後ろに置けというので、言われるままにした。空いた膝の上に、彼女が下げていたビニール袋が置かれる。飲み物が入っているらしく、ズボンが冷たく濡れた。
「ちょっと持ってて」
「あ、はい」
Tシャツさんがキーを回すと、乾いた音がボンネットの方から聞こえた。喉を痛めた猪が唸っている様が頭に浮かぶ。やがて、エンジンの振動が起きた。
彼女がレバーを操作する。車は後ろ向きにゆっくりと、駐車場を抜け出した。
*
まったく、絵に描いたような「少年」だった。
目に掛かるまで伸びた髪。その下の自信なさげな眼、口元。吹けば本当に飛んでいってしまいそうな細い体格。おまけに猫背。父親が作った巨大ロボットに無理矢理乗せられ、人類の未来を一手に引き受けていると言われても不思議じゃない雰囲気が漂っていた。
そんな少年の膝に、あたしはハンドルを動かしながら手を伸ばした――なんていうと誤解を招きそうだけど、そこにあたしの夕飯があったのだから仕方ない。
「梅か」あたしは手にしたおにぎりのラベルを読んだ。「梅とたらこ、どっちがいい?」
「え?」
「どっちか食べていいよ」
「でも……」
「いらないなら別にいいけど」
「自分で買ったのがあります」
「そ」
あたしは遅い夕食を摂る。小さな梅干しが奥の方に埋まったおにぎり。少年も自分の(赤飯おこわ)を食べた。頑張りをアピールするようなエンジン音と、対向車の走り去る音が車内を満たした。
「水、取って」一つ目を食べ終え、あたしは前を向いたまま手を差し出した。
「はい」
冷たいボトルが渡された。キャップを外し、一口含む。ボトルホルダーなんてハイカラな物はこの車には付いていないので「持ってて」と少年に返した。
「イヤじゃなかったら飲んでもいいよ」
「ありがとうございます」
少年は迷っていたようだけど、飲む気配はなかった。
しばらくはお互い、エンジンの音に耳を澄ませていた。
「家出?」シフトチェンジのついでとして、あたしは訊ねた。
どうやら不意を打ったらしく、隣からは咳き込む音が聞こえてきた。見れば、少年はあたしの渡した水を呷っていた。
「すみません、飲んじゃいました……」
「別にいいけど」
「いきなり図星を当てられたもので」
「白状するんだ」あたしは笑った。「あそこで寝るつもりだったの?」
「いえ。お腹が空いて、休憩してたんです。そうしたら警察の人に声を掛けられて」
「こんな時間に子供が一人でコンビニにいりゃ、声を掛けないわけにはいかないよ」
「浅はかでした」心の底から悔やんでいる、といった調子で少年は言った。
「どこかへ向かう途中だったの?」
「はい、夜はずっと歩いて行くつもりでした。明るくなってから、どこか涼しい場所で眠ろうかと」
「眠るって、どこまで行く気?」
対向車の鳴らすクラクションが、ドップラーとなって通り過ぎた。
しばらく間を置いてから、少年がポツリと言った。
「根室です」
「これまた渋いチョイスだね」けど、家出してどこへ行こうが当人の自由だ。根室だろうが
だけど少しも走らないうちに、あたしはおかしなことに気が付いた。
「いや、ちょっと待って」違和感の正体はすぐに突き止められた。「歩いて行くつもりだったの? 根室まで?」
根室といえば、北海道どころか日本最東端の街だ。札幌からは歩いて大体――すぐにはわからないけど、一日二日で着くような場所じゃないことだけは確かだ。
「本当は夜行バスに乗る筈だったんですけど、チケットを失くしてしまって」
「だとしても歩いて行こうなんて、ガッツあり過ぎでしょ」
すると少年は苦笑いしながら頭を掻いた。
その気持ちはわかる気がした。そうまでして、家に帰りたくない理由があるのだろう。
家出には、想像以上に労力と意志が必要だ。誰にも言わずに実行する分、常に「もうここでやめちゃえば?」という自分の声が付き纏う。そういう弱い自分を振り切るためには、鉄の心を持って、ひたすら前に進み続けるしかない。それこそ、地べたを這ってでも。
あたしは言った。
「良かったら根室まで乗せてくよ」
「お姉さんは、どこまで行かれるんですか?」
「あたしは――
丁度、赤信号で車が止まった。左へ曲がればJRの駅へと続く道。この時間じゃ、もう駅には入れないだろうけど、近くにビジネスホテルぐらいはある筈だった。
生憎と札幌まで送ることは出来ない。あたしとて、引き返せない理由があった。
信号が青になるまではたっぷり時間が掛かった。五分ぐらいはあったんじゃないかと思うけど、さすがにそれは長過ぎか。その間あたしは、いつでもウインカーを出せるようレバーに指を乗せていた。
「いえ……」
青信号が点くのと、声がするのはほぼ同時だった。
「連れて行ってください」
隣を向くと、少年の眼差しとぶつかった。
何か腹を括ったという感じの、真っ直ぐな眼だった。
それはたぶん、実家を出た時のあたしが持っていたのと同じものだ。
後ろからクラクションを鳴らされた。あたしは前へ向き直った。
「OK」クラッチを踏み込み、ギアをローへ入れる。
口元が自然と綻んだ。これから東を目指すことが、急に楽しみに感じられてきた。
「行こうか、東の果てまで」
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