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   *


 月寒つきさむに差し掛かった辺りから、急に空腹を覚え始めた。

 初めは無視出来る程度だったけど、斜面を転がる雪玉のように、それは見る見る大きくなってきた。

 迂闊にも夕飯を食べていなかった。普段なら、十時までの夏期講習を終えた後、家で食べるのが慣わしだった。今頃食卓に並べられた僕が食べる筈だった食事を思い浮かべると、腹の虫がまた鳴いた。

 耐えきれず、シャッターの降りた銀行の前でリュックを下ろす。

 家から持ってきたミネラルウォーターを飲む。渇きは癒やせたけど、空腹は誤魔化せない。もしものために、と一緒に入れたカロリーメイトに手が伸びかけるけど、思い留まる。欲望を振り切るように、僕は再び歩き出す。

 だけど、信号を二つも越えないうちに再び空腹が頭をもたげた。更にそこへ、牛丼屋の換気扇から甘辛の匂いが漂ってきた。

 僕の理性は限界を迎えた。

 店じまいした中古車販売店の軒先でリュックを漁る。その姿が、いかに獲物の肉を貪る獣じみていようとも、気にしている場合じゃなかった。

 そうした醜い姿から僕を正気に戻したのは、小銭の鳴る音だった。

 ハッとして荷物を掻き分ける。果たして底の方から小さな小銭入れが出てきた。ゲームセンターのコインでぬか喜び、なんてオチは考えられない。僕はゲームセンターに行ったことがないのだから。

 ファスナーを開けると、中には小銭が数十枚詰まっている。

「おお」不覚にも声を漏らす。数々の罠を乗り越えた末、洞窟の奥で光り輝く財宝を見付けた冒険家の気分だ。少しでも多くの資金を持って行こうと思い、余った小銭を貯めていたこのケースも入れたのだろう。それで財布を忘れていては元も子もないけど、今は素直に喜ぶべきだ。

 スマホの光の中で、金額を改める。十円玉が殆どで、一番高い硬貨で五十円玉。地面に並べて数えてみると、全部で三百二十一円入っていた。お世辞にも多いとは言えないけど、無一文に比べれば小躍りすべき金額だ。

 全ての小銭を戻し、僕は近くのコンビニへ駆け込んだ。「後々のために取っておく」という発想は湧いてこなかった。

 米が食べたい米が食べたい米が食べたい米が食べたい――

 そんな気持ちで頭がいっぱいだった。棚に並んだおにぎりを二つ掴んでレジへ行き、次に気付いた時には入り口脇のイートインコーナーでビニール袋を逆さにしていた。

 フィルムを取るのももどかしく、毟り取るように剥く。ようやく現れたおにぎりにかぶりつく。海苔がパリパリと音を立て、塩の風味が鼻をくすぐる。自分は今、食事をしている。そんな実感が、心を満たしていく。

 早々に一つ目を食べ終えてしまった。足りない。やっぱり二つ買っておいて正解だった。

 ふと、どこからか視線を感じた。

 正面の硝子が、蛍光灯の白い光に照らされた店内の景色を反射している。僕が映っているけど、特に変わった様子はない。その代わり、窓の外にある視線とぶつかった。いや、一瞬「顔だ」と認識したけど、それは顔ではない。人間でも、それ以前に動物ですらなかった。

 正面の駐車場に駐まる車。ルパン三世が乗っているような、丸くて小さな古い外国の車だ。けど、それにしてはずんぐりむっくりしているようにも見える。左右のヘッドライトが眼で、バンパーが大きく横に開いた口のようだ。『不思議の国のアリス』に出てくる、あるキャラクターに似ている。えっと名前は――

 そう、ハンプティ・ダンプティ。

「君、ちょっといいかな?」

 女の人の声がした。

 硝子の向こうのハンプティ・ダンプティが、イートインコーナーの反射の中に消える。代わりに現れたのは僕と、その傍に立つ男女の二人組だ。

 女性の方はショートカットで、若くもなければ歳を取っているわけでもない。母さんより十ぐらいは若いだろうか。男性の方は銀色の髪を後ろに撫でつけている。こちらは明らかに「中年」と呼べる年齢だ。どことなく中学の教頭に似ていたので、僕は心の中の窓を一つ閉めた。

 二人ともスーツ姿だ。ジャケットも羽織っている。けれど、「夏と言っても北海道だから暑くはないだろう」と高を括っている道外からの観光客のようには見えない。

 答えはすぐに示された。女性の方が、ジャケットの内ポケットから縦二つ折りの黒い手帳を出し、広げてみせた。中の上半分には彼女の顔写真、下半分には金色のエンブレムが填め込まれていた。写真の女性は、警察の制服を着ていた。

「ここで何をしてるの?」

「おにぎりを……食べていました」口の端に海苔が付いていないことを切に願いながら、僕は言った。

「もう一時を回ってるけど」

「どうしてもお腹が空いちゃって」

「君、高校生?」

「中学生です」言ってから口を噤んだけど、時既に遅し。僕は迂闊な己を呪う。

「中学生がこんな時間に出歩いていていいのかな? おうちの人は? 君がここにいること、知ってるの?」

 知っている筈がない。だけど、僕が帰ってこないことには気付いているだろう。

 もしかすると、母さんが警察へ通報したのかもしれない。「すみません、息子が塾から帰らないのですけど」「わかりました奥さん。今すぐ市内全域に捜査網を張りましょう。息子さんの特徴は?」「色白で、どちらかと言えば痩せています。背は、どちらかといえば低い方です」「そうですか。それでは早速手配を」。そんな風にして、札幌中の警官が今この瞬間、該当の少年と思しき人物を血眼になって捜している――そんな妄想が頭を通り過ぎる。

 しかし、全くないとは言い切れない。少なくとも息子が何の連絡もなしに二時間以上帰らないのだから、母さんとしては何かあったと思わない方が難しいくらいだろう。

「私たちと一緒に来てもらえるかな?」

「どこにですか?」

 女性は答えない。代わりに、とばかりに、少し離れたところで黙ったままだった男の方が近付いてきた。わざと人を竦ませようとしているような動きだ。

「やめてください!」僕は身を引いた。その拍子に肘がテーブルの上に置いたペットボトルに当たった。ボトルは床に落ち、虚しそうに転がった。

「安心して。私たちは君を保護するの」

 この場合の「保護」は、野良犬とか野良猫に対して使うのと同じ意味を持っているような気がしてならない。たぶんその先に待っているのは、暗い行き止まりだ。

 教頭似の男が手を伸ばしてくる。左腕を掴まれる。男の手は岩のような見た目で、力は工事現場の重機を思わせた。ニコリともしないところを見ると、彼は人間ではなく機械か何かなのかもしれない。手は、振り解こうとしても無駄だった。

「大丈夫。言う通りにしてくれれば何も怖いことはないから」女刑事が言う。

 僕は知っている。大人が「大丈夫」という言葉を使うのは大抵、大丈夫ではない時だ。

 抵抗虚しく、僕は男に引っ張り上げられた。

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