1-3
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エンジンの音しか聞こえないのが寂しくて、ラジオのダイヤルを捻った。けれど、ノイズが聞こえるどころかウンともスンともいいやしない。少し前までは砂嵐の向こうに辛うじて人の話し声が聞けたのに、叩いても擦っても、何の変化もなかった。
五十年近くも前の車となると、当然HDDやCDなんてハイカラなものは付いていない。カセットすらなかった。こうなれば最後の手段は脳ミュージック、脳ライフ。あたしは記憶のライブラリにある曲をハミングし始めた。
最初のうちは楽しかった。だけど、五曲、六曲と数を重なってくると面倒くささが湧いてきた。おまけに、冷房のない(!)車なので窓は半開き。走っている最中ならまだ良いけど、信号待ちで停まったりするとあたしの美声が外にダダ漏れとなる。いつ、誰に聞かれるともわからない。さすがに最低限の羞恥心は持っているつもりなので、一人きりのコンサートは敢えなく沙汰止みとなった。
だけど、無音というのは耐え難い。君も知ってるとは思うけど、あたしは普段から作業する時は音楽かテレビを点けっぱなしにする質で、眠る時ですらラジオにスリープタイマーを掛けて眠る。全くの無音というのは、考えてみれば一日のうちで十分もない。
耳が寂しい。
それはつまり、心が寂しいと感じている、ということでもあった。
空いている助手席をちらりと見やった。革張りの座席が、対向車のヘッドライドを鈍く反射させていた。座面も背もたれも、何も歌わないし何も言わなかった。
あたしは溜息を吐いた。何に対してかって?
車の中の全てに、だよ。
そんなあたしに救いの手が差し伸べられたのは、札幌の中心部を抜け、
信号待ちをしていると前の方に、歩道に立立って片腕を突き出している人影が見えた。
街灯の白い光に照らされたその姿は、紛う事なきヒッチハイカーだった。
「おお」あたしは思わず声を漏らした。運転中じゃなかったら、手を合わせていた筈だ。
ヒッチハイカーは若い男だった。彼は何台もの車に無視をされ、勘違いして停まりかけたタクシーには両手を振って謝っていた。
やがて、あたしの番が来た。
交差点を進み、ハザードを出して彼の前で停止する。パワーウインドウではないから、助手席側まで手を伸ばし、手動で窓を下ろす。
「どこまで?」
「オホーツク海の見える場所まで」
「OK、乗りな。荷物は後ろの席ね」
青年は乗り込んでくる。漂ってくる、旅の香り。
「ボロい車だけど、我慢してね」苦笑するあたし。
「むしろ好きだな、こういうの」気さくに笑う青年。
そして二人を乗せたハンプティ・ダンプティは走り出す――
勘違いしないでほしいのだけど、あたしは別に、この旅にアバンチュールを求めていたわけじゃない。後々書いていくことだけど、むしろそういうものとは逆の目的を持った旅なのだ、これは。
だからこの時の妄想(そうだよ妄想だよ)も、単純に耳が寂しかったからという理由で湧いてきたものだ。後からこうして振り返ると、本当に寂しかったのだと実感する。
さて、信号が青に変わり、車の列が流れ出した。
あたしは片手をハザードのボタンに添えていた。一旦目の前を通り過ぎてから停まった方が、落胆からの更なる喜びを与えられるかしらんとも考えた。考えただけで、実行はしなかったけど。
そんなこと、する必要もなかった。
青年の前を通過し、ハザードのボタンからは手を離した。あたしは元の通りハンドルを握り、ギアを四速にまで上げた。つまり、彼を乗せるために車を停めたりはしなかった。
理由は簡単。男の傍に、しゃがみ込む女の姿があったから。
「ねー、疲れたー」「あとちょっと我慢してよ。もう少しで捕まるからサ」「さっきからそればっかじゃん(女、頬を膨らます)」「そんな顔してると、せっかくの美人が台無しだゾ」「フン」「むくれた顔も可愛いけどネ(女の頬を突っつく)」「もー……バカ」
そんなやり取りが、一瞬で脳内に流れ込んできた。実際にそんな会話があったかどうかの問題じゃない。あいつらなら絶対にやる。そういう確信が、あたしにブレーキではなくアクセルを踏ませたのだ。
ルームミラーに映る二人の影に、「爆発しろ」なんて無粋なことを言うつもりはなかった。ただ、「一生そこでそうしてろ」とは思った。
そう思うぐらいの自由はあっても良い筈でしょ?
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