1-2
*
バスは三台並んでいて、それぞれの乗り口の前に行列が出来ている。この三台で車列を組んで目的地へ向かうのだ。
自分が何号車だったのか確かめるべく、僕はチケットの入った財布を取り出そうと尻ポケットに手をやった。けれど、指先には何も触れなかった。
あれ?
肩に掛けていたリュックを前に持ってきて、めぼしいポケットを探す。ない。本体の中を探る。やっぱりない。
頭の奥、脳の芯(そんなものがあれば、だけど)が痺れてくる。
知らない間に列に並んでいることになっていた僕の番が回ってきた。制服を着た中年の運転手が手袋を嵌めた片手を出していた。チケットを渡せということらしい。
「あの……チケット、ないんですけど……」
「買ってないんですか?」
「買ったんですけど、なくしちゃったみたいで……」
「お名前は?」
「
運転手は眉を顰めながら、クリップボードに挟んだ用紙を捲る。
紙の上を辿っていた指が止まった。僕の名前を見付けたようだ。
「身分を証明出来る物、あります?」
「いえ、財布もなくしてしまって……」保険証もその中だ。生徒手帳は家に置いてきた。
「財布も」運転手は耳の上辺りを掻いた。「せめて身分証がないとねえ」
「どうにかなりませんか」
「どうにかって言われてもねえ」
後ろでいかにもな咳払いがした。振り向くと、僕の後ろに並んだおばさんが眉を顰めていた。以降、続く人々はみんな同じ表情だった。
「一度、カウンターに行ってもらえます?」
運転手の言葉に従うほかなかった。
何の期待もしないで窓口へ向かうと案の定、期待しなかった通りの言葉が待っていた。
「申し訳ありません、お客様」硝子の向こうに座る制服姿の女性は言った。「身分証がないお客様は、ご予約の照会をいたしかねます」
「電話番号ならあるんです。080――」
「お客様、失礼ですが、おいくつでいらっしゃいますか?」受付の女性は、やけにピンクが鮮やかな唇を曲げる。
「……十四です」サバを読んでも無駄だとわかっていたので正直に答える。僕の容姿と声では、どう頑張ったって十八歳以上には見られない。
「未成年のお客様が乗車券をお持ちでない場合は、保護者の方と直接お話しさせていただく決まりとなっているんです」
そんなことをされたら元も子もない。切符を買う時に必要だった、保護者確認欄のサイン(母さんの筆跡を真似た)。なるべく少量で抑えるための荷物の選定と、それを持ち出すための計画立案(予め庭の隅にリュックを隠しておき、塾に行く格好で家を出た)。塾への欠席連絡(四十一度の高熱が出たと演技した)。これら全ての苦労が泡となって消えてしまうのだ。
それに何より、〈目的〉が果たせなくなる。
「ご自宅のお電話番号を教えていただけますか?」女性の口調はあくまで丁寧だけど、そこには年長者が年下の者に対する時の諭すような色が含まれている。「おうちの人は、バスに乗ることを知っているんですよね?」
僕はそれ以上の抵抗を諦めた。
バスターミナルを出る。左手を見上げると、既にライトアップを終えたテレビ塔が影となって聳えていた。
札幌の街の中心部を、東西に延びる
テレビ塔の先にも道は続いている。僕は今、その道端に立っていることになる。
つまり、目の前の道を右に進めば、東へ向かう。
東へ向かえばいつかは目的地に辿り着く。
バスが何だ。移動手段は、バスだけじゃない。電車でもない。この脚があるじゃないか。
僕はスマホを取り出し、Googleマップを立ち上げる。
検索ウインドウに『
『3日 14時間』
そう書かれた吹き出しまで付いていた。
思ったよりは短い、というのが率直な感想だった。何となく、一週間ぐらいは掛かる気がしていた。
これなら――。
全ての道を歩かなくたって、途中でヒッチハイクをするという手もある。幸い、今は夏で、行楽のシーズンだ。道外から来た旅行者なら特に、面白がって乗せてくれるかもしれない。
リュックの中には水も食料も入っている。財布がなくたって、切り詰めれば三日ぐらいは持ち堪えられそうだ。
行ける。
僕はリュックを背負い直し、深呼吸した。
今更迷ったって仕方ない。行くしかないのだ。
僕の後ろには、「戻りたい日常」なんてないのだから。
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