エンプティ・エンプティ

佐藤ムニエル

1-1

 水平線が蒼白く光っていた。

 その輝きは網膜を突き破り、僕の脳裏に焼き付いた。

 直後に吹き付けた、猛烈な冷気と共に――


 ガクン、と体勢を崩して目を覚ます。正確には、目を覚ましてから体勢を崩したと知ったのだけど。

 茶色いタイル敷きの床。その上を、いくつもの足が通り過ぎていく。

 自分がどこにいるのかわからなくなって、記憶を漁る。答えに辿り着く前に、アナウンスが天井から降ってきた。

『二十二時五十分発、根室ねむろ行きサンライズ号は乗車受付を開始しております。ご乗車のお客様はお手元に乗車券をご用意の上、3番乗り場へお越し下さい』

 二十二時五十分、根室、サンライズ号――最後のはバスの名前だ。

 そうだ。いま僕は、バスターミナルの待合室にいるのだ。

 夏期講習に行くからと言って家を出たのが遠い昔のことみたいに思える。或いは夢の中での出来事か。今朝まで僕がいた「日常」は、もはや遠く離れつつある。

 母さんは、もう気付いただろうか。帰りが遅いと思っているだろうか。

 二学期が始まった時、同級生たちはどんな顔をするだろう。「佐久さく? 誰?」「そんな奴うちにいたっけ?」。談笑。大して想像力を使わなくても、そんな光景がありありと浮かぶ。

 待合室の硝子越しにバスが見えた。白地に緑の線をあしらった観光バスが並んでいる。

 東へ向かう夜行バス。

 僕を〈故郷〉へと誘うバス。

 絶対に乗り遅れるわけにはいかない。僕は抱えたリュックを肩に掛け、腰を上げる。


   *


 動かなくなった人間の体は、想像以上に重かった。

 ついにやってしまった。

 そんな気持ちが湧いたのは、〈荷物〉を車のトランクに詰め込んだ後だった。頬から顎へ伝う汗を、あたしは手の甲で拭った。

〈荷物〉は我が愛車(69年型マツハシ・オリオン。中古の中古みたいなスクラップ寸前の車を知り合いの好事家からタダ同然で譲ってもらった)に収まる量だった。心なしか後ろが沈んでいるように見えたけど、気にしないことにした。どうせ誰も見ちゃいないだろう、と。

 一旦、奴の事務所に戻り、電気が消えていることを確かめた。FAXの留守電も作動を確認した。

 準備は整った。

 あたしは非常階段を降り、裏口からマンションを出た。そして愛車を停めたコインパーキングに戻り、車に乗り込んだ。

 キーを捻ると、掠れた音を立ててからエンジンが掛かった。

「良い子だ、ハンプティ」あたしはハンドルを撫でた。

 ハンプティ・ダンプティ――それが、我が愛車の呼び名だった。イタリアの小型車を模して作られたらしいけど、何故だか全体的にずんぐりして見えたのでこう名付けた。特に正面からの見た目は、子供の頃に読んだ絵本で出てきたアイツにそっくりだったのだ。

 ギアをローに入れ、サイドブレーキを下ろした。

 当然、オートマではない。こちとら牧場の娘なので免許を取る時は実家の軽トラを運転することを前提に、一緒に自学へ入った友達とは引き離されて一人だけクラッチの足捌きに悪戦苦闘させられた。その成果もあって、未だ交差点でエンストするなんて野暮は犯していない。免許取得以来実家の軽トラを運転する機会はなかったけども、自学での苦労は無駄にならずに済んだ。

 黒々と聳える藻岩山もいわやまに見下ろされながら、住宅街を進んだ。通りへ出て、更に国道に乗った。

 東へと向かう道。

 目的地は、ただ漠然としてしか決めていなかった。別に定山渓じょうざんけいだろうが層雲峡そううんきょうだろうが摩周湖ましゅうこだろうがどこでもよかった。襟裳岬えりもみさきだって宗谷岬そうやみさきだってよかった。

 とにかく遠くまで。

 そうしてパッと頭に浮かんだのが、オホーツクの海だった。

 最果てのイメージ。目的を果たすには、最適な場所に思えた。

 目的とは何かって?

 そうだね、それを話しとかないと。

 札幌さっぽろから遠く離れた場所に、トランクに押し込んだ〈荷物〉――あたしの忌むべき過去を捨てる。これが、あたしとハンプティの旅の目的。

 ごくごく個人的な復讐だった。

 まさかそれが、あんなことになるなんて、この時はまだ思いもしなかった。

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