第9話 幸せの壊れる音


「どうして…」


 山中木春やまなかこはるは独り言を呟いた。



 今は誰もいなくなった自宅の前でポツンと一人佇み、遠くを見つめる。



 震えているのは12月の雪が降るか降らないかという寒さのせいか、それとも大切な友達かれしを失ったことによる動揺か。



 木春は自身が女であることを心底憎んでいた。


 女になんて生まれなければ良かった。


 いっそのこと生まれてすらこなければ良かった。



 まだ小学生の頃、優しかった母が病死した。


 後になり病名はがんだったことを知る。



 それからの日々は地獄だった。



 毎晩、父親と一緒にお風呂に入った。


 いや、入らされた。


 腕や足を洗ってもらう。どこの家庭でもある日常の光景だろう。


 頭を洗い終わると、父親は何故かスポンジなしで木春の胸や股を洗い始める。


 念入りに洗ったあと


「交代だ」


 と言い、自分の体を洗わせる。



 父親は毛むくじゃらで、熊のように大きな体をしていると思った。


 小さい頃はそれがお互い様で当たり前なんだと思っていた。



 その儀式は18歳まで続いた。



 木春は素手で父親の股間を洗うときに手に張り付くゴワゴワとした固い陰毛が、皮をめくってしごくと段々硬くなる陰茎の先から出てくる透明なネバネバが嫌いだった。



 中学を過ぎてから膨らみ始めた胸の大きさを確かめるようにあてがわれる掌の指先で、陥没した二つの先端がぷくっと膨らむまでいじられる時間が嫌いだった。



 下腹部に伸ばした手を前後に動かして、ごつごつした中指の先がヌルヌルに濡れるまでやめようとしない父親の荒い呼吸が、すべてが嫌いだった。



「いつか襲われる」


 18歳で家を出た。



 お金もないので、独り暮らしをしている4つ年上の兄のアパートへ逃げ込んだ。


「着替えだけあればいいよ」


 妹はそう言ってくれた兄の気持ちが嬉しかった。



 遺伝なのか毛深さや背の低い熊っぽさはどうしても父親を連想させたが、わらにもすがる思いで身を寄せた。



 兄は優しかった。


 食事も布団も。


 も。


 そのときの木春になかったものを全て与えてくれた。



 布団は一つしかなかった。


 それもそうだろう、男独り暮らしのアパートだ。


 父親と違い兄は一夜目にして妹との一線を越えてきた。


 まるで


「それが当たり前だ」


「宿代を払え」


 とでもも言わんばかりに。



「このときを待ってました」


 とでも言わんばかりに。



 ずっと心を殺してきた。


 それが木春の処世術。



 怖ければ流れに逆らう必要はない。


 溺れて掴んだのがわらか、陰茎あにか、ただそれだけのちょっとした違い。



 兄は早いから。5分以内に終わるから。


 我慢していればいつか…何もかも全部終わるから。



 行為が終わるとおやすみもなく背中を向けて兄は寝る。


 木春はお腹をティッシュでふいてから寝ようとするが、行為のあとはいつも眠れなかった。



 もう涙も枯れ果てた。


 眠れない夜の間は、朝までずっとあにの隣にいることを我慢するしかない。


 長い長い夜が過ぎるのをじっと待つのはつらかった。



 兄と一緒に暮らしながら始めた交通整理のアルバイト。


 ヘルメットをかぶり、厚い作業着を着て、長靴を履いて、暑かろうと吹雪こうと立ち続ける。



 学歴や資格に関係なくすぐに働ける仕事だった。


 女性でこの仕事をする人は少ない。


 でも我慢することに慣れている自分には向いていると思った。



 働き始めて1ヶ月した頃、同じ職場の年上の男性に告白された。


 年は22歳離れている。


 おなかはぽっこり丸く出ていて、いつも汗をかいていて、背も高くない。


 短髪で、すでに生え際は後退し始めている。


 格好いいという言葉とは無縁な人。



 白馬の王子様。


 子供の頃に憧れた存在。


 自分の元にやって来たのは、王子様ではなかった。



 けど、木春には王子様でもおじさんでもどちらでも良かった。


 今の生活から逃げ出せるなら。。 



 木春は兄のアパートを出て同棲を始め、19歳になったときに結婚し、姓を山中に変えた。



 式は挙げず、祝福してくれる友達もいなかった。それでも良かった。


 地獄のない平穏、それが木春の幸せ。



 そんな幸せは結婚して1年がたち20歳になった10月5日、


パーン


 と音をたてて壊れた。



「なんだその目は!何か文句があるなら言ってみろ!」



 些細なことだった。


 夫の仕事で上司が厳しいという話になったときに


「仕事ができないからじゃない?」


 と軽い気持ちで言ったことがきっかけだった。


 木春の夫はコンプレックスの塊だった。


 自分のことを馬鹿にされるのが大嫌いなのだ。


 正当防衛とばかりにもう一回、


パーン 


 と張り手をする。



 木春は右の耳を抑えてうずくまった。


 顔ではなく耳なのは、頬に跡が残らないようにするためだろう。



「今度生意気なこと言ったらまた張り手が飛ぶからな」


 夫は額から玉のような汗をいくつもたらしてフーフーと荒い呼吸をしながらそう脅した。


 木春の白い手首を掴み、その意思に関係なく無理矢理寝室へ連れこんでベッドに向かって投げ倒す。


そのまま電気を消して、いそいそと服を脱ぎ床へ投げ捨てる。


 ボタンがとれるんじゃないかという強さで乱暴に木春の服をはぎとっていく。


 ブラジャーのホックだけは外すのにやけに手間取るが、その防波堤もすぐにくずされると夫が赤ん坊のように木春の胸にしゃぶりついてきた。



(嗚呼、まただ。結局どこへ行っても、地獄から地獄…)



ギシ…ギシ…



 木春は夫の重みを受け止めながら見開いた目で、天井の模様の線を数えては間違え…数えては忘れ、数えた。



 それからはことあるごとに


「なんだその目は!?」


 と暴力をふるわれてから押し倒されるのが当たり前になっていった。



 暴力で相手を抵抗できなくさせて屈伏させるのが常套手段の男だった。



 木春の夫のベッドの下には中古で購入したであろうAVが山ほどある。


 仕事でいないときに数えてみると292本あった。


 お気に入りの作品があるとそれと同じプレイを強要してきた。



 クローゼットの中には制服、スーツ、チャイナ、巫女、キャラクターなどのコスプレ衣装が18種類。


 タンスの引き出しにはローター、バイブ、クスコ、ローション、オナホといった大人の玩具が23個あった。



 結婚をあせって人格も、こんな玩具の山も、見抜けなかった。


 木春は自分を責めた。



 右の耳を平手打ちされるのが始まりの合図。


 主導権を奪われ体を弄ばれる日々が続いた。



 写真に撮った局部や、ベッド脇に置いたカメラで撮影した動画はどこにいくのだろう?


 少しでも疑問に思ったことが伝わるだけで右耳を平手打ちされる。


 されるがまま人形ダッチワイフのように従った。



 兄とは違い木春の夫は感度が悪いのかなかなか果てることが出来ず、行為が一時間も続くことはざらだった。


 早く終わらせるために木春は手も口も声も、心以外で使えるものは何でも使うようになった。



 夫による調教が7ヵ月ほど続き迎えた20歳の5月。



 木春の右の耳からは音が聞こえなくなっていた。












 













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