第5話 離岸
小学4年生の頃のある夏の水泳の授業のこと。
ムッチムチのブーメランパンツをはいている男の先生の前に体育座りで集まる生徒37名。
「50m泳げるようになった人いますか?」
そのうちの一人は、当時好きだった女子に格好つけたくて泳げもしないのに手を挙げた松本少年。
「それでは今手を挙げた子に手本として50m泳いでもらいます」
!!!!????
戦慄。
何故こんなくだらない見栄をはって嘘をついてしまったのか。。
後悔する間もない。
手を挙げた生徒は次々と立ち上がり準備運動してからプールに入り、適当なレーンで待ち構える。
7レーン埋まるだけいないほど手を挙げた生徒は少なかった。
今さら
「先生、やっぱり50m泳げません」
とは言えない。
松本は意を決して立ち上がり、その場で軽く屈伸。
ゴーグルをして歩いていき、ステップを使ってつま先からプールに入った。
驚くほど水温が冷たい。
心臓が縮み上がる。
「ヨーイ…」
ピーーッ!!
甲高い笛の音が鳴り響く。
一斉にスタートする生徒たち。
松本もクロールで必死に泳ぐ。
25mが遠い…まだ着かない。
20mやっと泳げたところですでに両隣の2人は折り返してすれ違っていくところだった。
松本もガリガリで細身な体に持てる力を総動員して25m折り返す。
この時点で自己新記録だ。
そのままの勢いで50m…に届くわけもなく、35mほど泳いだところで限界が来て足をついて水面から顔を出して
「はぁ!はぁ!」
と息をしてしまった。
「
「かっこつけて嘘つくんじゃねーよ!!」
同級生たちの嘲笑。
晒し者となった松本は好きだった子の前で大恥をかいた。
誰とも目を合わせられず下を向きながら無言でヒタヒタと、体育座りの生徒の中へと戻っていった。。
(……どうして今そんなことを思い出しているんだ…これが走馬灯?!)
バシャ!バシャ!バシャ!
「ブハァッ!!」
松本はあのときと同じ、いやそれ以上に必死で、全力で泳いでいた。
松本、
半田はブーメランタイプ、白滝はボクサータイプ、松本は半ズボンタイプの水着。
気になる池谷は体型がうまく隠れるようなフリルのついた柄つきの白い水着だった。
周りに人がいない所まで移動してそこで海に入り、特に何をするでもなく浅瀬でキャッキャワイワイと水をかけあう。
太陽も低くなり始めた頃、気がつけば足もつかないような沖まで来て泳ぎ自慢などしていた。
池谷だけは浮き輪にしがみついて子犬のように足をばたつかせている。
「そろそろ戻ろうぜ」
少し疲れも出始めた頃、半田の意見に従ってみんな浜辺に向かって泳ぎ始めた…はずだった。
(…進まない?)
平泳ぎでかいてもかいても進んでいる気がしない。
見えない何かに引っ張られて進む力と引き戻す力がプラスマイナスゼロになりその場にとどまってしまうのだ。
「陸まで戻れ!!!!」
異常に気付いた半田が叫ぶ。
もはや声を出すことすら困難なのだろう。
男子3人女子1人、浜辺から50mほどの沖で無言で波をかき分ける。
「毎年、うちの学生で海で溺れて死ぬ奴いるらしいよ」
「酒でも飲んで海に入ったんだろ?」
(オレは同じ轍は踏まない。
そう思っていたのに!今泳ぐことをやめれば、足がつれば。。)
松本は確実に感じていた。
すぐそこにある、死の気配を。
ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
この周囲一帯からそう聞こえてくるくらい強力な波の力。
『寄せては返す波』
とよく言うが、いくらこらえても返すばかりで寄せてくれない。
目に見えない自然の力に足首を捕まれ、遥か大海へ引きずり込まれてしまいそうだ。
(もう出し惜しみはできない!)
松本は力の限りクロールで泳いだ。
途中、丸い浮き輪にしがみつきバタ足をする池谷に追い付いた。
右手を上げて息継ぎをする瞬間、池谷と松本の目が合った。
互いに見開いた目。
一瞬の長考。
その目を見ても、声をかけることも、引っ張ってあげることも、松本には何も出来なかった。
「「「ハァ!ハァ!ハァ!!」」」
浜辺で荒く呼吸をする男3人。
いつも笑みを崩さない半田は苦しそうに目を閉じ大の字で仰向けになっている。
白滝は体育座りにうつ向いたまま一点を見つめなんとか呼吸を整えようとしている。
土下座をするように手をつき下を向く松本。
ポタポタポタとあごから水滴が垂れ落ちて砂浜に吸い込まれていく。
陸にあがってからどれくらい時間がたっただろうか。
長く感じたが実際にはほんの1分にもみたないほどだったかもしれない。
やっと呼吸を整えて顔を上げて周りを見てみる。
「……池谷は?」
松本が振り返るとどこにも池谷の姿はなかった。
ザザー
ザザー
寄せる白い波の向こう。
濃い群青色をした果てしない海が広がっていた。
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