119.緊急時の対応

 ある日、先輩からメッセージが来た。

 「にょーん」とだけ書かれていたので、こちらも「にょーん」と返した。そしたら次は「にゅーん」に変わったので、負けじと「にゅにゅーん」と返した。

 子供の頃、大人というのは賢い会話をしているものだと信じていた。それがどうだ。いい年した大人が二人、意味のない文字をスマートフォンに打ち込んでいる。世も末だ。別にこれが身内だとかネット上の付き合いなら良い。だが相手は同じ会社の先輩である。悲しくなってきたので、意味のないやりとりを終わらせるため、丁重に言葉を選んで腰も低く打ち込んだ。


「用事ねぇならブロックしますよ」


 数秒後に電話が掛かってきた。まだ午前中なので私のテンションは低いが、先輩はテンションが高い。


「あのさ、暇? 暇だよね?」


 決めつけないでほしい。暇だけど。


「今ね、A県にいるんだけど」

「そういえば昨日から入ってましたね。何かありました?」

「暇なら、Nに電話掛けてくれない?」


 Nとは先輩の直属の後輩というか部下というか、そんなポジションの若手である。今は一緒に行動している筈だ。

 さっぱり意味がわからないので、とりあえず思いつく可能性を口にした。


「え? 携帯失くしたとかですか?」


 スマートフォンが行方不明だから電話を掛けてみる、というのはよくある手法である。しかし口に出しながら気がついたが、そんな目的であれば先輩が掛ければ良いだけである。なので続けて別の推測を言葉にする。


「それか、寝坊して現場に来ないとか?」


 ホテルで眠りこけていて現場に来ない、というのもよくある話だ。だがそれにしたって先輩が電話をすれば良いし、私が電話で起こしたところで次の指示は出せない。どういうことだろうかと首を傾げている私に、先輩は「違うよー」と否定を返した。


「Nね、病院の駐車場の車の中にいるの」

「なんで?」


 初めて聞く要求に初めて聞く状況。ますます意味がわからない。


「この病院さ、ワクチン接種してないと業者は入れないんだよね」

「あぁ、まぁそうでしょうね」

「接種証明持ってこなかったから入れないんだよ」

「持ってくるように言いました?」

「言ったよ」


 つまり、病院に入るために必要なものを忘れて現場に来てしまったので、仕方なく車の中に置き去りにしているのだろう。まだ若手なので一人ホテルに戻したところでどうしようもならない。あと管理的に問題がある、といったところだろう。


「だから暇してると思うから、電話掛けてあげて」

「お悩み相談室とかじゃないんですけど」


 と言いつつも、面白いので電話を掛けてみた。私はそういう人間である。

 コール二回ですぐにNが電話に出た。


「証明書忘れたん?」

「そうなんですよ。必要だとは言われてたんですけど、見つからなくて」

「見つからないまま現場行くなよ」

「どうにかなるかなって」

「なってたまるか」


 電話の向こうでNは大きなため息をつく。


「というかやばいんですよ」

「何が」

「俺、めっちゃピンチで。トイレ行きたいんですよ」


 行けよ。まさかチャイルドロックで閉じ込められているわけでもあるまいし。


「トイレが病院の中にしかないんですよ。俺病院に入れないじゃないですか。詰みました」

「その辺の茂みで用を足せば?」

「嫌ですよ、恥ずかしい」


 恥じらいの気持ちをここで出されても困る。


「でもかなり限界なんですよね。淡島さんが電話くれて助かりました。気が紛れます」

「限界きたらどうするの? そこでするの?」

「そこなんですよね。マジでどうしたらいいですか」

「業者がワクチン証明書が必要なだけで、外来患者は必要ないだろ。スーツ脱いでいかにも業者感無くして中に入れば?」

「え、無理ですよ。裸は捕まります」


 そこまで脱げとは言ってねぇよ。と叫びそうになったが、ここは会社である。周囲にNの珍言動を晒すこともあるまい。その程度には私にだって良識というものがある。


「ジャケット脱いで、シャツの首元緩めろってことだよ」

「いけますかね」

「いけなかったら、そこで漏らすだけでは? あるいは近くの茂み」

「俺、綺麗好きなんで外は絶対無理なんですよ」

「災害時に同じこと言えたら本物だって認めるけど、多分お前違うからいけると思うよ」

「やば。だるいんですけど」


 だるいのはこっちだ。


「最寄のコンビニとかは?」

「徒歩三十分ですね。もう自分のスマホもパソコンも充電切れちゃったし、社用携帯が死んだら俺本当にやることないです」

「やることはあるだろ。トイレ行け」

「後で先輩にばれたら怒られません?」

「車で漏らすよりは怒られないと思う」


 一度通話を切って、先輩に掛け直した。どうやら作業中だったらしい先輩は、さっきよりテンションを九割失った声で応答する。


「どうだった?」

「トイレ行きたくて、車で漏らしそうって言ってます」

「はぁ?」

「スーツを脱いで全裸で病院に入っていいかと言ってます」

「それもう漏らした後じゃん」


 誤解を招く表現になってしまった。


「まだ大丈夫ですけど、そうならないために外来患者を装ってトイレにだけ行ってもいいかって」

「えー、ボロ出さないといいけど」

「今の流れでボロっていうと、違う意味になっちゃいますね」

「え、何?」

「馬のボロって言いません?」

「知らない」


 後で調べたら競馬用語だった。でも一般的にも知られている言葉だとは思う。

 それはさておき、もう一度Nに電話をかけて、外来患者を装えと告げることにした。


「マジですか。ありがとうございます」

「バレないようにしてね」

「俺、めっちゃ具合悪そうに入るんで大丈夫です。現に今もやばいんで」

「そういえば、今回って二泊三日じゃないの? 明日どうするの?」


 常識的に考えれば帰ったほうが良いと思うが、一応聞いてみる。

 するとNは「いやぁ」と笑い混じりで答えた。


「往復チケット買っちゃったんで、明日もこの状態だと思います」

「一応後でプロマネに相談しなさいね」

「そうですね。トイレをどうするかは聞いておきます」


 そんな心配してねぇよ。そう言いかけた時には通話は切れていた。

 彼が無事に用を足せたことを祈るばかりである。

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